史上最悪の日

February 25, 2006
シーア派のアスカリ廟が焼かれるという前代未聞の事件がおきた。犯人は、過激派であろうが、テロリストであろうが、タクフィーリーユーんであろうが、イスラーム教徒であることはまず間違いはなかろう。イスラーム教徒がモスクに火を放つという史上最悪の出来事をやってのけたのだ。事件を受けて、シーア派の指導者たちは、シスターニー師やムクタダー・サドル師は自制を求める声明を出したというが、シーア派の怒りは収まらない。今度は、スンニー派のモスクに対する襲撃が始まった。犠牲者も25日現在で200名を超えると伝えられる。
少し前に、聖預言者ムハンマドの風刺画問題で、反対デモが各地で繰り広げられた。シリアやレバノンではデンマーク大使館に火が放たれ、ナイジェリアでは教会が教われ20人近い犠牲者まで出た。それだけでも、風刺画に描かれたとおりのことをやってしまっているというのに、今回は、とうとうモスクの爆破にまで及んだのだ。かかれたことより見えたことがすべての事実信仰の人たちに、クルアーンにはとか、預言者ムハンマドはとかいってみても、何も認識を変えてはくれないであろう。イスラーム教徒は自分たちの居場所を自分たちでどんどん狭めている。
『剣を取り合って、殺したムスリムも殺されたムスリムもともに火獄に入る』というハディースがある。モスクの焼き討ちはもちろん、その後の殺し合いなど、このハディースを知っている者たちであれば、絶対に行わないはずだ。なのに、血で血を洗う争いが起きてしまっている。
私の友人は「イスラエルでさえやれなかったことを自分たちでやってしまった」と嘆いていた。モスクの破壊とムスリムの殺害。それを犯したのがムスリム自身なのだ。彼は、モスクの破壊は、モンゴル侵入以来ではないかとも指摘する。確かにイラク人は好戦的だ。自動車爆弾は、ムスリム同胞団騒ぎに乗じてイラクがシリアを脅かし続けた手段だったとも聞く。宗派間の溝も確かに深い。しかし、だからといってそれを許してもよいのか。それがアメリカ侵攻後のイラク民主化の結果だとすれば、あまりに悲しい。
50年後にこの事件がイスラーム教徒がイスラームを捨てたターニングポイントにならないことを願うばかりである。

ワズゥィーファとアマル الوظيفة والعمل

January 01, 2006
シリアが安全だということを説明するのに、シリアの人々はよく、夜中の3時に女性が子供づれで歩いていても安心な場所が世界のどこにあるかという。僕も、この説明はわかりやすいので、よく使ってきたが、夜中の3時という時間の意味自体が違うのではないかとこのごろ思い出している。
日本で夜中の3時というと、さすがに大半の人は寝静まり、起きている人も、ましてや表を歩いている人は数が少ないということが前提となる。そんな時間に歩いていても安全だといえば、確かに安全だ。その時間の東京が安全かと外国人に聞かれたら、このごろは安全とはいえなくなっていると答えざるを得ない。
これに対して、アレッポの夜中の3時。実はみな起きている。みなというのはやや大げさだけれど、概して夜更かしなのだ。木曜の夜などは顕著で、子供も含めて、多くの人々が確実に起きている。結婚式などがあれば、宴もたけなわの時間だ。夜寝ないのは、ラマダーンの月だけのことかと思ったら、そんなことはない。親に付き合って夜更かしした子供が、教室でボーっとしているなんていう光景は普通らしい。となると、夜中の3時といったって、みな起きている時間のこと。みなが起きているような時間に、犯罪が起きるようになったら、それこそおしまいなのだ。
しかし、なぜ、朝の礼拝をしてから、本格的に昼前まで寝るような生活が可能になっているのであろうか。いろいろな原因はあろうけれど、社会主義の機能不全の象徴ではないかと思えるのだ。この国の半数以上の人々は公務員として働いている。しかし、公務員の給料は、月に100ドルを少し超える程度だという。コンピュータを家に備えようとしたら、とてもではないが、不十分だ。そこで、副業ということになる。タクシーに乗ると、まれに、正則アラビヤ語をきっちりしゃべる運転手に乗り合わせることがあるが、学校の先生だったりする。
公務員の勤務時間が、8時半から2時半(だったと記憶)であるから、いったん帰宅して食事をして一休みした夕方からが、実入りのある仕事の時間なのだ。
アラビヤ語でいうと、昼間の仕事は、ワズゥィーファ(課題、宿題、職務)と呼ばれるのに対して、夕方からの仕事は、アマル(仕事)である。問題は、ワズゥィーファのほうは、国から割り当てられた公務員としての仕事であって、いや、仕事場といったほうがより正確かもしれない。そんなことを言ったら怒られるかもしれないが、大学を見ていると、一部の多忙な部署を除けば、仕事自体は、小一時間で済むものだといえる。
行っていれば、最低限の食い扶持は保証されるが、かといって、決してそれ以上のものにはならない。極端な例をひとつあげれば、仕事はしっかりやるので、11時からの出勤にしてという申請が通れば、彼は、11時からの出勤でも、業務には一切影響がないなんていうことが起きるのである。そんなファズゥィーファに効率や生産性の概念があるとも思えない。改善しようなんていう考えはついぞ出てこないことになる。見入りに関係ないという現実的な意味でも、アマルではないけれど、職業意識や職業倫理にも極めて乏しい。その点においても、アマルとは別のものになってしまっている。
あるタクシーの運転手がこんな話をしてくれた。火力発電所の建設現場で、中国人のチームと仕事をしたことがあるという。シリア側は公務員のチーム。中国人技師たちは、10時に寝て7時の朝食には、全員がきちんと起きてくるのだそうだが、シリア側は、10時就寝といっても2時3時で、7時なんてとても無理だったらしい。中国側がアマルとして取り組んでいたのに対して、シリア側は単なるファズィーファとして取り組んでいたということであろう。
このワズゥィーファがアマルにならないところに、当面の朝寝坊の原因があるのではないかと僕自身は睨んでいる。旦那が寝ていれば、奥さんは寝ている。そうなると子供は一人で何も食べずに学校に行くことになる。
今年中学生になった知り合いの子供が、今夜は徹夜なんだなんていうから、早く寝たほうがいいんじゃないのというと、「習慣だから」と言ってのける。早く寝たほうがよいのは、わかっているというし、夜中子供が表でボール蹴っていたりするのを預言者様が見たら泣くんじゃないの?といえば、きっとそうだと認めるのに、それでも「習慣だから。お父さんもお母さんも、兄弟もみんな起きてるから」という。身長は夜伸びるんだよといったら、少し神妙になったけれど、預言者は、すばらしい人だったんだという話に摩り替えられてしまった。預言者のすばらしさを語ることができることもさることながら、そこから何を学び、自分がそれをどう実践していくかがもっと大切なのに。。。この子においてもすでに、ワズゥィーファとアマルが乖離してしまっているのだ。
誰も起きていない夜中の3時にそれでもシリアが安全だといわれるような国になってほしいと願ってやまない。

ワハミーなイード、ハキーキーなイード العيد الوهمي والعيد الحقيقي

January 01, 2006
西暦の2006年がやってきた。年越しの時間、アレッポの夜空には30分以上にわたって、新しい年を祝福する花火の音が鳴り響いた。国営テレビは、年越しの特別編成で、視聴者へのプレゼント当選者発表番組だったり、年越しのディスコ(=古いなぁ。ほかにたとえのことばが見つからないので。。)パーティーの様子を中継していたりしたけれど、なんか、グローバル・スタンダードのありきたりの風景をあえて流しているっていう気がして、虚しさを受け取ってしまった。
イスラーム教徒にとっては、2006年の元旦ということもさることながら、ズゥィ=ル=ヒッジャの最初の10日間の初日としての1月1日である。この10日間、実は、行った善行がアッラーに特に好まれる10日間なのである。ファジュル章では、この10日間に対してアッラーの誓いが立てられている。
ダマスカスのシンポジウムから帰ってきて出かけた、金曜礼拝の説教がこの話だった。西暦の新年を迎えるが、1年間を振り返り、自らの行いを自ら清算するよい機会だという指摘から始まり、しかし、イスラーム教徒の場合は、実は日に5回。信仰の強い人ならば、瞬間瞬間自らの行為を振り返り、悔悟し、改めることをするはずだという話につながる。しかし実際にはなかなかそう完璧には行かない。だから、この10日間のような期間が設けられていると考えることができそうだ。モスクのイマームによれば、サウム、礼拝、施し、アッラーの名を唱えること、人々の対するよい行いなど、俗事も含めて、よい行いに努めてはいかがということだ。アッラーの愛にかなえば、来世での幸せに近づくことができるというものだ。いつになく非常に厳粛な気持ちにさせられた金曜礼拝であった。
そして、アッラーがとりわけよい行いを受け入れてくれるこの10日間の後に待っているのが、大イード(犠牲祭)である。お祭りになるには、それなりの理由が準備されていることがわかる。こういうところがイスラームのすばらしいところだと思う。
日本で大イードに相当するものを強いてあげれば、お正月ということになろう。かつては、少なくとも俗事については清算を済ませなければ迎えることのできないイードではあったけれども、その意味は薄れてしまっているのではなかろうか。十分な清算がないから、暦が改まる程度には、気持ちは改まらない。お正月というのがどこか他人事なのは、そのせいなのかもしれない。
イスラームイードの前に、善行が特に受け入れられやすい期間を置いた。しかも誰のための善行でもない。貧者のためでもなければ、伝統や習慣のためでもない。特定の誰かや特定の目的のためでないが人々に善行を勧めている。この善行には、ラマダーン月中の義務として決められている斎戒とは違って、積極的で前向きな努力が必要だ。大イードとされる理由がこの辺りにもありそうだ。
ムスアブ医師とそんな話をしていたときに、イスラームイードは、ハキーキー(真実的)だが、日本のイードは、ワハミー(人為的に設定されたもの)だねということになった。お正月とともに年を重ねてきた、日本人の僕にとってそれをワハミーという言い切るのは、忍びない。確かに、新年を迎えるにあたって、旧年の行為の清算も、したがって気持ちの刷新もなく、また積極的な善行も師走の忙しさの中にまぎれてしまうようでは、虚しい。しかし、虚しさを乗り越えるのも、積極的で前向きな心積もりがあってからこそだと思う。まずは、自分自身からか。イードまで後10日。まずは、10日後のイードをハキーキーにしなければ。そんなことを考えながら、西暦の新年を迎えた。

厳しい現実 وضعنا ليس بسيطا

December 07, 2005
靴をなくした話が挨拶代わりになった今日である。「日本からはるばる来ている大切な客の靴が盗まれるとは」と嘆くことはあっても、靴泥棒自体に驚く風は一切ない。どこのモスクで祈っていたかを聞いて、あそこは特に気をつけないとという具合。モスクへ出かけるときには、盗まれてもよい(あるいは盗まれようのないような)古い靴に履き替えていくものだそうだ。どうしても新しい靴を履いていかなければならなくなったときには、キース(ビニール袋)にいれて、礼拝中も自分のそばから離さないようするものでもあるらしい。しかも、話をした人がみな一度ならず被害にあっているというから、半端ではない。むしろ、そういう目に今まで一度もあわずに済んでいたことを感謝したほうがよさそうだ。
「モスクで盗みを働くなんて」という疑問に対する答えも明快だ。「泥棒に、場所は関係ない」。巡礼団に紛れ込んで、女性に悪さをする輩もいるということで、それに比べればまだかわいいというところだろうか。しかし、どうしてこれほどまでに人々の意識が低下してしまったのか。今日は、2つのレッスン、すなわち、朝1番のフサーム先生のところでも、その後のムサアブ医師のところでも、話はそのことに及んだ。
思いもかけず、シリアの近代史をさかのぼることになった。二人の話を総合すると、人々の意識の低下は今日や昨日に始まったものではない。
まず、80年のムスリム同胞団の事件である。この事件以来、シリアの一般の人々は宗教に近づくことを極端に恐れるようになったという。その理由は、自宅の本棚にイスラーム関係の書物があるだけで、疑いをかけられたという話で十分であろう。僕が始めてシリアに来た90年ごろはまだこの雰囲気が十分残っていて、宗教と政治の話は、絶対するなというのが、当時の研究者の鉄則だった。
次に、第1次世界大戦である。これを契機にシリアではフランスの統治が始まるが、宗教教育が著しく制限され、オスマン朝時代には厚遇されていたモスクの運営の人員や予算も削減された。イマームたちはじめモスクで働く人々に支払われていた給与も大幅カットの憂き目にあった。20世紀のはじめにはアーディリーエのモスクには19名の職員がいたとされるが、それが今では6名。フランス統治時代のままなのである。(因みに、イマームの給料は、2400シリアポンド(月)。公務員の平均給料の約半額。不足分は、人々の浄財から得ているという。即断は禁物だが、ザカーが困窮者に回らないのもうなづけるような気がする)
ムスリム同胞団の動きも、西側の近代化に触発されて始まったという経緯があり、しかもその目的は、社会全体に宗教的な安寧を実現していくというより、政治権力の奪取に重心が置かれていた。これも、シリアの一般の人々に対するイスラームの覚醒には程遠かったのかもしれない。
さらに、オスマン朝時代。宗教が人々の生活から離れ、法学を中心としてものになってしまったという話をフサームさんは付け加えてくれた。宗教が法学を中心とした宗教「学」になってしまったのである。
こうしたことが、積もり積もって今の状況が作られているというのである。アレッポには、シャリーアの高校はいまだにひとつしかなく(工業や芸術の高校はいくつもできたのに!)、いわゆる専門学校(マアハド)はあるけれど、それを出ても、ダマスカス大学のシャリーア学部入学に何のメリットもない。これらは、すべてフランス委任統治時代そのままの状況なのだという。
さらに、危惧すべきは、90年以降のグローバル化下の状況である。ムサアブ医師の話によれば、中学や高校で勉強を止めてしまう若者が増えているというのだ。勉強など続けていたのでは、いつまでたっても携帯電話やインターネットに費やすためのお金が稼げないからだ。「勉強しろ」と強制されるのも嫌っているらしい。私立大学の設立が大量に認可されようとしている今日のシリアで、日銭の稼げる単純労働に身を費やしていく若者たち。ああ、ここでも貧困の再生産が、そして人々の家畜化が、怒涛の勢いで進行中だ。
エリートと呼ばれ、信心深いとされている人々でさえ、専門家の目からすれば、イスラームの教えについてほとんど知らないのが、現状だとムサアブ医師は嘆く。ムサアブ医師が彼らから受ける質問の大半が、初心者の域のものだという。金曜の礼拝で、イマームの話を聞く以外にイスラームについて学ぼうとしない人々が大半だという現実も厳しい。
靴の紛失事件は、アレッポというムスリム社会の現実とその裏側を教えてくれている。こうした現実にもかかわらず、フサーム先生やムスアブ医師のように戻るところを見失わず、日々努力を怠らぬ人々が存在し続けるというもの、この教えの偉大なところであろう。クルアーンという書物の存在はいかに大きいことか。アッラーフに感謝しつつ。

全員無事です كلنا بخير الحمد لله

December 05, 2005
昨日、日本大使館から安否の確認が入っていると、センターで日本語の先生たちが、連絡網の連絡を行っていた。アルジャジーラでは伝えられた、アレッポ郊外での銃撃戦について、ここまでわかっていることを簡単にまとめておきたい。
シリア治安部隊とアルカーイダ系の過激組織との間におこなわれた同日午前の銃撃だったとのこと。タクフィーリーユーンと総称される過激派運動の一つ(タクフィーリーユーンとは、自分たち以外の意見をまったく聞き入れず、自分たち以外をムスリムも含めて、すべて不信心者扱いする者たちの意)。聞くところによると、ハムダーニーヤの競技場の爆破計画もあったという(これは大混乱になるに違いない)。
銃撃戦は、治安部隊が当該組織を捕捉しようとした際に起きたとのこと。車が炎上し、一般市民の犠牲者も含めて死者も出ている。
場所は、アレッポの東部、空港へ向かう道のどこかだとされる。いわゆる貧困が激しい地区でもある。ただし、市民生活への影響は皆無。センター関係の日本人の安否は問うまでもなく、業務は、通常通り行われている。
なお、昨日ラタキアでおきた爆破事件は、穀物サイロの事故。テロとは関係ない。

それにしても、クルアーンを、あるいは、シャリーアを一部分だけ取り出して、それを頼りにこうした行為を起こす人々は、ほんとうに許されない。アレッポの一般市民もこの点では一致していると言ってよい。こうした良識も踏みにじる傍若無人なテロ行為。チェチェン自爆テロソ連製だと『アッラーの花嫁たち』を読んでそうおもっていたところに、アラブ関係のテロはアメリカ製だという指摘がされているのを聞いた。テロの応酬にも似た責任の押し付け論ではなく、こうした視点をテロリズム撲滅のために活かしたいものだ。

なくなった靴 حذائي مفقود 

December 05, 2005
アレッポに住むようになって、そろそろ2ヶ月を迎えようとしている。金曜の、そして普段の礼拝でいちばんよく利用しているのが、ホテルからいちばん近いところにあるアッバーラのモスクだ。日本でいえば、一昔前の秋葉原のような電気製品店街の中心に位置する。モスクの入り口のカウンターで貴重品を預かってくれる係りのおじさんは、顔のきらきらするまっすぐな感じの人。いつもモスクを訪れるたびに、胸に手を当てて、丁寧に挨拶してくださる。いつだったかラマダーン中にたまたま隣同士で祈ったときは、お互い旧知の仲といった感じで、礼拝後に挨拶を交わしたものだ。
今日は、週に1度のアフマド先生とのジュルース。テーマは、来世。現世の生がいかに取るに足りないものかを教わった。もちろん、小さいからといって捨ててはいけない。現世で以下に生きたかが来世の行き場を決めるからだ。家族も財産も道連れにはできない。来世までついてくるのは自分の行いだけなのだ。
帰り際にマルカズによるが、借家関係の約束が明日になったことを知らされ、そのまま、アッバーラのモスクへ、アスルの礼拝によった。イカーマを呼びかける人が運良くいてくれて、居合わせた人々とともに祈った。妙に充実した祈りだったように思えた。
さて、帰ろうといつもの下駄箱へ行くと、靴がない。モスクの中の下駄箱であるにもかかわらず、いつもの6番に私の靴がない。あっ、やられた。慌てて、モスクの入り口へ出てみるが、それらしき靴も人も見当たらない。うぅぅ。
ここで考え直す。間違えられた可能性もある。まずは、連絡があったら教えてもらえるよう、靴がなくなったことだけ言い残しておこう。つまり、おじさんはもちろん、カウンターに人のいない時間だった。おそらく彼がやってくるのは、マグリブの前。もう1時間あまり。とりあえず、待つことにした。
すると、声をかけてくる人がいる。「どうしたのか」と。事情を説明すると、「私に靴を買わせてくれ」という。「お金の問題ではない、このことをモスクの人に知らせておきたいのだ」というと、別のカウンター係の人を連れてきてくれた。大切なお客に申し訳ないことになったと靴代を払わせてくれと言った彼が謝っている。ホテルまでのタクシー代を払わせてくれという。これも丁重に断らせてもらった。「モスクの人を呼んできていただいただけでほんとうに十分です。ありがとうございます」。彼はすまなそうに去っていった。
やがて、別のモスクの人がやってきて、いつものおじさんのことを聞くと、今日は非番とのこと。靴はよく盗まれるんだよとほとんど屈託がない。政府のことをハラーミーだって人々はいつも言うけれど、人々もハラーミーなものだとぶつぶつ。ホテルの雑用係のファウジに部屋からスニーカーを届けてもらう。気に入っていた靴だし、シリアの靴で昔すっかり足が痛くなったことがあるので、諦めきれないが、ここは諦めなければならないようだ。
ホテルに戻ると、フロントのアブー・ローディーが笑いながら、「災難だったね。まぁそれがあの靴の運命(サビールフ)だ」と慰められた。聞けば、こともあろうにもすくではかなり頻繁に盗難が起こるらしい。「運命だ」と諦めるしかないようなのだ。それでも「盗難は盗難」。イスラーム法では、窃盗には厳しい刑罰が用意されている。もし、「ファーティマが盗みをしたならば彼女の手を断つだろう」という形で聖預言者の言葉にも出てくる「窃盗」なのにまったく残念だ。
ただ、気をつけなければいけないことは、盗みと決まったわけではない。こんな決め付けはよくない。所詮、現世は小さいのだ。
悪いものでも食べたのか、しくしくと痛む腹を抱えながら、シリアの靴を見直すチャンスが与えられているのか、それともまた新しい物語が始まるのかなと思おうとしている。

アルツハイマーの恐怖 خوفا من أرتهيمير؟؟

December 05, 2005
日本を出発する直前、物忘れのひどさに愕然としていた。さっき、記憶に刻んだはずのことを忘れている。やっておこうとしたこと、ふと思いついたこと、ものを置いた場所など気がつくと忘れてしまっていることが多くて、ひそかにアルツハイマーを疑った。原稿の締切りだとか、書類提出の締切りだとか、ほかにもいろいろ先延ばしにして、とりあえず忘れてしまっておきたいことも多かったからなのかもしれないと思いつつも、アルツハイマーの恐怖に戦いてもいた。
年のせいにしたくはないけれど、そうにでもしなければなんとも解決のつかない問題。勉強したこともこうして身につかぬまま忘れてしまうのか。アラビヤ語の語彙ももう増えないのか。留学を前に、ほんとうに最後のチャンスだと気を引き締めもした。アレッポについて、何より先にはじめたのが、クルアーンのタフシールの精読だ。このブログでは、おなじみのムサアブ博士に一緒に座っていただいている。
先日、カラム章の「アサーティール・アル=アウワリーン」という表現の解説から、アルツハイマーの話になった。(その経緯は後日に譲るが)
シリアにもアルツハイマーがあるという。ただし、驚くべきことに、非常に発症率が低いのだそうだ。しかも程度も重くないという。当然のことながら、その理由に話は及んだ。曰く「シリアでは、アルツハイマーの主たる原因は、飲酒や麻薬だと考えられている」。飲酒をするキリスト教徒でさえ、量を飲まないから、対して問題にはならないという補足までついた。なるほど、日本とシリアのアルツハイマー発症率を飲酒率と並べてみると何かが出てくるかもしれないと思えた。
さらに、「クルアーンをよく読む者は、理性が守られる」という主旨のハディースがあるとも教えてくれた。ここでも鍵は、クルアーンだ。そして信仰の強さ。心の底にまで届くテキストを覚え、声に出すことによって、理性だけでなく、たましいも養われるということなのだろう。そうすれば、おのずとアルツハイマーからは遠ざかることができるのかもしれない。
彼の知り合いに105歳になるシェイフがいるという。言葉も記憶もまったく普通の人と変わらないという。105歳の半分にも満たない僕がアルツハイマーなんておこがましい。たましいにまで届くはずの書が、きちんとたましいにまで届くよう、しっかり勉強していきたいと思う。