自殺のない社会 المجتمع الخلي من الانتحار

December 03, 2005
希望を失わないとはなんとすばらしいことだろうか。2度にわたる携帯電話紛失事件から、そのことを教えてもらったような気がする。自分で勝手に決め付けて、諦めてしまうこと、きっとこれも一種の傲慢だ。そんな傲慢さに対する教訓が2度にわたる紛失を通じて与えられるとは。ほんとうにアッラーは偉大だ。
さて、希望を失わないのが、バナナ家に特有な楽天的な血のせいではないことは、もう一度強調しておいてよいように思われる。それを裏付けるのが、自殺者の少なさの話だ。奥田研で「自殺問題」といえば、小牧奈津子さんが修士研究で取り組んでいく予定のテーマでもあり、そんな関心もあって、先日は、精神科医も務める私の畏友、ムサアブ博士とそんな話をした。
ムサアブさんによれば、彼がアレッポの39年間の人生で聞いた自殺といえば、「2件」だという。そこで「それ知っている」と私。「一人が、前首相で、もう一人が今回の内務大臣でしょ」というと「サッハ」とムサアブさん。もちろん、シリア一流のブラックジョーク。あの二人が自殺でないのは、国民は皆知っている。
それはさておき、正直なところ、2・3件だという。しかも、どこの誰で、どんな事情で亡くなったということまで知っている。つまり、人々の記憶にしっかりととどめられるくらい、稀有な印象的な出来事なのだ。40年間で2・3度しか起きない事柄といえば、なんだろう。不謹慎ではあるが、親の死ぐらいかもしれない。年間に3万人。しかも働き盛りの自殺が多いという日本の事情を説明すると、ムサアブさんが絶句していた。
自殺者が少ない理由の説明も明快であった。一つは、信仰。もう一つは、家族を中心とした社会の絆。信仰があれば、悩みがあっても人は、自分自身ではなく、神と向き合うことが可能になる。社会の絆があれば、悩んでいる人を放っておくことをしない。だから、悩みがあっても、信仰心を上手に取り戻してあげることによって、自らを殺す事態は回避できるし、周りが悩みを聞いてあげることによって自分を取り戻すこともできるだろう。もちろんイスラーム社会にも精神を病む人はいるという話で、彼も実際に数名の患者を抱えており、治療に成功しているとも言う。確かに、神に守られているんだよ事実を本人に気づかせることに成功すれば、心は安定を取り戻すかもしれないと素人目にも考えられる。しかもそこには、かなり確かな治療法が存在しているということも注目に値する。
その日は、自殺してはいけない理由の話でちょうど時間となったが、それは、次のような説明だった。「殺人と自殺とどちらが悪いと思うか」という質問に対して、答えは「自殺」。なぜか?「殺人者は、生きている限り自分の行為について悔悟できるが、自殺してしまうとそれができないから」とはムハンマドの言葉だという。「悔いては改める」。そういう余裕を本人も社会も持つこと。それが、自殺者を激減に結びつける鍵のように思える。失敗を責め続けるだけでは、つらすぎる。破滅が待ち受けるのもわかる。悔いること、そして改めること。いちばんお赦しくださるのが、アッラーでもある。

携帯電話 الهاتف المحمول

December 03, 2005
ここ数年、シリアへくると携帯電話を持つ。研修でくるときには、センターとの連絡用に持たされるといったニュアンスが強いが、今回の滞在では、より積極的に持っている。かつて、電話線を引いてある借家を探そうとすると本当に難しかった。もう10数年前にシリアで最初に住んだ家も大家さんとの親子電話だった。そのころは、電話線も配給待ちのような状態で、「もう何年も前に申し込んでいるのだが」という返事を家探しのたびに聞いたものだ。
それが、今は携帯電話がほんとうに簡単に手に入る。カメラ付き、ゲーム付き、キーボード付きと機種も豊富で、たいていの人は持っているといってもよいほどだ。今回入手した機械は、カメラなしの最もシンプルなものだが、それでもノキア製ということもあり7000シリアポンド(1万3千円程度)だった。決して安い買い物ではない。中古品市場でも高値で取引されることもあろう。こうしておそらく目を見張る速さで普及している。
シリアで携帯電話が出始めたころ思ったのは、もともとが話し好き、長電話の人たち、これで携帯など持ったときにはどうなるのかという素朴な疑問。回線がパンクするに違いないなんて考えたが、それをすべて解決しているのが、通話料金の高さ。誰かが儲けているななどということはとりあえず考えず、ほんとうに短い通話、いわゆるワン切り、そんなあの手この手で普通の電話(通称、家電、アラビヤ語では地上回線の地上だけとってアルディー)に切り替えてしゃべっている。
ホテル住まいの私に家電はなく、当然、携帯への依存度が高い。ホテルの交換を通じて地上回線が使えるので、正確には家電がないわけではないのだが、携帯の便利さが日本ですっかり身に染み付いている私はほとんど携帯で済ませている。友人への連絡、アポイントメントの変更はもとより、日本への連絡やSFCとの遠隔授業の音声もすべてこの携帯によるものである。
この携帯を1週間のうちに2度落とすという失態を演じてしまったのが先週であった。1度目、落とした場所、大学から、カラムダアダアへの移動に使ったタクシーの中。気づいたのは、落としてから4時間後。クルアーンのレッスンを終え、ホテルに戻る途中。一縷の望みをかけて、ホテルの部屋から自分の携帯に電話。運転手さんが拾っていてくれた。乗車中にムスリム同士意気投合して話が弾んだのも功を奏した模様。出かける予定をキャンセルして届けてくれたのだ。いい運転手さんに拾ってもらってよかった。アル=ハムドゥリッラー。
それから4日後に2度目がやってきた。落としたのは、カラムダアダアからバロンへ戻るときに乗ったタクシー。気が付いたのは、携帯で連絡が付きませんという地上回線からの電話。その電話をもらってもなお、スイッチを切っていたかなと思っているのんきな私。うぅぅ。また紛失だ。
もう観念した。運ちゃんとは一言も交わさなかったし、この手のこと2度めはない。冬用コートの横ポケットに入れまいとあれほど決意したのに、、、自分が悪い。次に与えられるのは、試練と覚悟して、自分の携帯に電話をしてみる。「電源が切られているか、電波の届かないところにあります」という女性のアラビヤ語案内だ。あぁ、売り飛ばされたか、私の携帯。。。やはり、試練が与えられたと観念。一度は戻ってきた大切なものをいとも簡単に紛失する自分のふがいなさに、自分の生き方まで見せ付けられたような気がして落胆。
これでは、信仰を持たない人間は、困難に出会うとすぐに落胆するという教えそのままだと思いながらも、どうにもやり場がない。ここが試されているのだよと言う声も途切れがち。
その日は、日本から岩井君と三浦君がアラビヤ語形態素解析のプログラムの実験のためにアレッポに到着する日。ダマスから携帯に連絡をしたが、連絡が付かないという連絡が入りましたという院生の植村さんからの地上電話の連絡で、携帯をなくしてことに気づいているのだから、つける薬はない。
もうあきらめたと言い聞かせて、彼らを出迎えようとやってきたバナナさんに会う。バナナさんは、明日シリアテルに行って番号をとめてもらう手続きをしよう「機械をもう一台買うことになるのは仕方ないな。ワハハ」といつもの調子で励ましてくれた。横で、妙にうれしそうなのが息子のムハンマドだ。うぅ。「頼むから、静かにしておいてくれよ」。
聞けばムハンマド、紛失経験者。しかも2度。その彼は一生懸命電話をかけ続けてくれている。すると、なんと応答があったではないか。しかも、今すぐ届けてくれるといってくれているという。ただし、返すときに顔が見たいといっているらしい。かくして、2度目も電話は返ってきた。運ちゃんいわく、「いろいろなところから、わけのわからない電話ばかりがかかってくるんで切っておいたんだ」。岩井君に、植村さん、そして、その日マグリブにモスクのクルアーン公開レッスンに連れて行ってくれることになっていた、今度大家さんになるアブー・アドナーンさん。それは、電話を切ってしまいたいのも、本人に直接会って渡したいという気持ちもわからないではない。
二人の運転手さん共にお礼はお渡ししたが、それにしても、シリアの運ちゃんのモラルは高い!ここのところシリアのムスリム社会に懐疑的になっていた僕には、気持ちの明るくなる出来事でもあった。こころからシュクラン。
それにしてもムハンマドには脱帽だ。どんな局面に置かれてもなお、決して諦めない。バナナさんの血を確かに受け継いでいる。いやいや、血の問題ではなくて、それが、信仰深いということの意味なのかもしれない。自分が諦めても、神が守ってくれることがあることの証明。多くを学ばせていただいた。

日本語スピーチコンテスト مسابقة الخطابة باللغة اليابانية

November 25, 2005
ここのところすっかり恒例になった在シリア日本大使館とシリアで日本語を教える先生たちの主催による「日本語スピーチコンテスト」のアレッポ予行練習会に参加した。朗読に3名、スピーチ(中級)に3名、スピーチ(上級)に2名の参加予定者全員が、本番さながらに、教室いっぱいの聴衆を前にこれまでの成果を発表した。予行練習とはいえ、会場から伝わってくる意欲と関心の高さ、そしてスピーチのレベルの高さにはほんとうに舌を巻く。日本センターで指導に当たっている青年協力隊の先生方の苦労の賜物だ。
それにしても学生の個性や才能が日本語や日本語の世界と共鳴したときにはしばしばはっとさせられるが、今回もいくつかそんな場面に出くわした。たとえば、シリア人は、単語の最初の母音に強いアクセントを置いて話すが、これが、最初の母音に強いアクセントを要求する日本語の単語と出会うと、ほんとうにきっちりと意味を伝えてくれる。わらしべ長者の朗読の中に「朝になると」ではじまる段落があったが、これがシリア人女子学生の澄んだしかも強い母音の発音で読み上げられると、すがすがしい朝がそこに広がる。日本語の控えめな言い回しが、シリア人のまっすぐな抵抗精神と出会うと、カッバーニーの詩にまさに、今のシリア人が政府に対して、社会に対してくすぶらせている内なる思いが静かに吐露されていた。
昨年ASPで来日したムサンナーさんも参加していた。上級のスピーチ。来日の際にえた並ぶことの大切さをモチーフにして「シリア人も日本人のように並ぼう」と訴えた。時間と努力が無駄にならない社会を作るために並ぶことからはじめようというのだ。並ばないのではなく、並べないシリア人という指摘には思わず首を縦に振っていた。社会を少しでもそしてできるところからよくしていこうという向上心が日本に出会って生まれた説得力だったように思われた。
ムサンナーさんは、シリア人が女性やお年寄りを大切にするというシリア人のよいところの指摘も忘れなかった。だからできるはずだとも。そのフレーズが読み上げられたとき、この6月に来日したバナナさんが、愛知万博の入り口の長く太い行列の感想として、「こんな万博ができるまでに国を育て支えてきた、お年寄りまで、若い人たち同様に並ばせるのは、いかがなものか」という感想を述べていたのが脳裏をよぎった。シリアと日本が出会うとこうしていろいろな新しい発見が次々と生まれてくるのだ。
さて、スピーチコンテスト当日。ダマスカスにまでは同行できなかったが、夜、引率のマンスール先生から連絡が入った。8人中6人入賞!快挙にマンスール先生の声が上ずっている。入賞を逃したのは、ムサンナーさんと一寸法師を朗読したイヤードさん。「何だと。食べてしまうぞ」のフレーズは、彼の優男風の風貌とは正反対の迫力だったはずだが。。。でも、こんなに力のある二人が入賞者外に控えているアレッポの日本語の実力、なかなかなものだ。あらためて、指導に当たった先生方、日本センターのスタッフの皆様に心からの敬意を表したい。
そういえば、わたしも審査員の升席を汚した第1回のスピーチコンテストの上級スピーチでの優勝者は、日本帰りの留学生、そして現在、われわれのマンスール先生とともにシリアの日本語の双璧とされる、クタイト氏だった。それがたった8回のうちに、ほぼシリアでしか学んだことのない学生たちが、スピーチを競うようになったことになる。シリア全体の日本語のレベルの向上が見えるようだ。
異なる言語や文化に触れることは自らをよりよく知る結果になることが少なくない。「シリア人は、モスクではしっかり並ぶ」。日本語や日本との出会いを通じてシリアの忘れ去られそうになっているよさを彼らが前向きに取り戻す契機にもなってくれればと願ってやまない。

アレッポで語られたミシマ الكاتب الياباني الشهير ميشيما مذكور في حلب

November 17, 2005
先日、文学部の授業のひとつに、招かれた出席した。アレッポ大学日本センターで日本語を学ぶ、というよりも、SFCのアラビヤ語研修でアラビヤ語の先生をお願いしている、修士課程の学生、ラーウィヤさんが、三島由紀夫を通して、日本文学を紹介するという。彼女からは、そのほかにも講演会などの誘いを受けていたが、なかなか予定があわなかった。申し訳なく思ってもいたので、今回はよかったと胸をなでおろしていた。しかし、出かけてみてびっくり。日本センターのマンスール先生に案内されて、担当の先生の部屋に通されたのはいいとしても、文学部長の表敬訪問までついていたとは。そして教室へ入ってみてまたびっくり。階段教室に、100人を優に越える学生たちが待っていたのだ。
ラーウィヤさんの発表に先立って、マンスール先生の日本紹介まで付いて、ちょっとしたシンポジウムの風情だ。大学院の研究会風の授業を予想していたが、前の晩に少しだけ三島について調べておいた。発表の後にコメントを述べることにした。
ラーウィヤさんの発表は、英語経由でアラビヤ語に翻訳されている二つの三島の作品を取り上げていた。着眼点は、ワアイ(意欲)とイラーダ(意志)。自分を動かす気持ちとその気持ちを着実に実現していく人間の姿を読み取ったのだ。そこに、イスラームにも通じるヒューマニティ(インサーニーヤ)を見出している。なるほどという感じではあるが、気になるのは、三島の最期との整合性である。
彼にワアイとイラーダが見出されたとしても、その果てにあったものは、何だったのであろうか。イスラーム的には決して許されない自刃という最期。敗戦後、三島の扱ったテーマにイスラーム的には決して認められないものも少なくない。天皇制の崩壊という現実を突きつけられ、そこに自己破壊という虚無しか見出せなかったということなのかもしれない。その意味において、三島の崇敬は最期までエンパラトーリーヤに向けられていたのであって、どうにもイスラーム的とはいえない。
にもかかわらず、天皇制にも三島を苛んだ虚無にも触れずに、三島から肯定的にワアイとイラーダを読み取った発表に、むしろラーウィヤさん自身の若きイスラームの文学者としての問題意識――というより、渇望だろうか――がよく表れていたと思える。
僕自身は、三島よりも、則天去私の漱石のほうが、よほどイスラーム的ではないかと思っている。彼のイスラーム理解は、トルコのホジャのざれ話(*)が原風景になっているのだが、にもかかわらず、国家にも、社会のしがらみにも、人間の欲にも縛られない思想が、そこに描き出されようとしていたように思えるのだ。
いずれにしても、アレッポ大学の日本センターの図書室におかれている図書を使って、大学院生がそんな講演を準備するようにもなったのかと思うと、センターも成長したものだと感慨深い。貴重な一歩を大切にしながら、一日も早く、日本語から直接読んで、講演を準備できるような研究者が育つ手伝いをしたいものだと思う。

(*)漱石は、イギリス留学中に、「「今日、山が動くぞ」というムハンマドの話を聞いて人々が集まったが、一向に山が動く気配がない。そこでムハンマドは「山が動かないなら、われわれのほうから動いていこう」といった」という話を聞いた模様。筆者は、この故事をさまざまに当たったが、クルアーンはもちろんスンナにも見当たらなかった。偶然、数年前のトルコ旅行で、ホジャの話としてまとめられた本の中に、この話を発見した。ホジャとは、憎めぬ翁で、そのあえてする愚行から、人生の知恵を諭してくれる。

トリポリの床屋 الحلاق الطرابلسي

November 16, 2005
アレッポ研修に参加したことのある人ならおなじみのアブーナッワース。ここのところすっかりお世話になっている。今日のワジュベ(定食)は、仔牛のトマトシチュー風煮込み。マッシュルームのクリームスープにサラダ、白飯とともに頼んだら、クレームキャラメルまでついてきた。給仕のおじさんたちがさりげなく親切で、居心地がよい。一人の食事のそっけなさもそこにはない。
さて、アブーナッワースを大通り(クーワトリー通り)へ向かおうとすると、一見廃墟に見間違う、コンクリートが打ち放された、すべてのシャッターの閉まったビルが目に入ってくる。まぁ、向かいの果物屋の鮮やかさとそのとなりのナイトクラブの看板の怪しさに目を取られていると、気づかずに通りすごしてしまうが。。。その静まり返ったビルの一階で唯一店を開けているのが、床屋。散髪用の椅子がひとつ、大きな鏡の前に置かれている。アレッポにしても質素なたたずまいの店である。
こういう店はなんだか気になる。アブー・ナッワースから、ネットカフェへ向かう途中に毎日通るたびに観察するようになった。色白でメガネ、恰幅のいい、僕から見ても親父さんという年恰好のおじさんが一人でやっている。たいてい人が入っている。この店構えで、しかしそこそこの客。腕がよいに違いないなんてことを考え始める。
アレッポでもっとも渋いなと思っている床屋は、アレッポの目抜き通り、バロン通りにある床屋。周りのオフィスやお店やホテルが次々と改装していく中で、おそらく50年来のたたずまいを守っている。昔住んでいたころ1回だけお世話になったことがあるが、おじいさんが一人で営業していた。この店は、残念ながら格子のシャッターが下りたまま。店の中も主人が営業したころそのままになっているのがわかる。バロン通りにふさわしい紳士然としたあのご主人は、ご病気にでもなられたのであろうか。
さて、話を戻そう。ここのところ、伸びてきた髪の毛が気になってもいた。ええぃ。入ってしまえと、昨日アブー・ナッワースを出ると同時に向かった。向かいの店で買い物をしていたおやじさんが私を見つけるとすぐに戻ってきてくれた。「東洋人のこういう柔らかい髪の毛わかるか?」と一応確認。「わかってる」とおやじ。こういう早合点が危険なのは百も承知だが、おやじの表情に商売人くささがない。頭を預けることに決めた。
床屋さんがよくしゃべるのは万国共通であろうか。大シリアの話を書いた翌日に、フェニキア人の話をいきなり聞かされたのだ。つまり、代々トリポリレバノン北部の都市、アラビヤ語でタラーブロス)出身の彼は、アレッポに住みながらもレバノン人(正確にはトリポリ人)意識を強く持っているという話を始めたのだ。そしてそのよりどころがフェニキア人。彼の中でのアラブは、アラビヤ半島に出自を持つ砂漠の民。シリアもエジプトもイラクもそもそもアラブではないのだから別々なのは当たり前なのだと主張している。
話は日本人の宗教にも及んだ。日本人は、太陽を神と崇めている。太陽を神とする民は、太陽の照らし出すものを信じる。つまり、見えるものだけを信じるのだと。これは、床屋にいながら、なんだか良質な文化論にこんなところで出会えた気がして、おやじのはさみが妙に気持ちよさそうに音を立てているのも気にしないことにした。見えるものを信じる宗教は、わかりやすいのだという。発展につながりやすいのもそのせいだという論調だ。
それに引き換え、イスラームの教えは、見えないものを信じろという。アッラーも天使も最後の日も決して見えはしない。それに、預言者が亡くなった後の政権争いで、カリフたちが相次いで殺されてもいる。そういう宗教なのだと解説までつけてくれた。
これ以上しゃべらせるのは気の毒と、私は、自分がムスリムであることを伝えた。すると今度は、イスラームが万有に対する教えで、人種や民族に分けてはいるものの、敬虔さ以外に人を分けるものはないという、僕も講義でよくするくだりが始まった。おやじのはさみはますます早くなっていく。鏡を見るのが怖い僕。それでもとにかく、フェニキア人がどうしたという話は、もうとっくに吹っ飛んで、すっかり打ち解けた空気に包まれた。
ここの人々は、たとえ、人種や民族が違ってもこの空気が共有できるはずなのだ。だから、レバノン人のレバノン人性やシリア人のシリア人性、イラク人のイラク人性を際立たせようとする圧力には、本当に警戒したい。それは、ここに人々に不必要な分裂と敵対意識をもたらすからだ。
おやじのはさみが止まって、新しい刃に取り替えてかみそりを数箇所簡単に当てるとできあがり。おやじにいくらかを聞くと、お前が決めろという。相場を知らないわけではなかったけれど、そっちで言ってくれと頼むと、ちょっと考えて150といってきた。150は、ぼくが万が一チップを払わなくても、あるいは値切ってきても決して相場を割らない代金。講義代とはいわなかったけれど、50を足して払った。
来年の6月にはシドニーへの移住を計画しているというおやじさん。今日も店の前で挨拶交わしたけれど、かすかに立ってしまった脳天に近いところの髪の毛に気づいただろうか。できれば、髪が伸びる前に、そして髪が伸びてからもう一度、おやじさんに頭を預けようと考えている。

ベイルートにて بيروت

November 14, 2005
ベイルートに出かけてきた。ベイルートの名門、セントジョセフ大学に日本経営、経済講座を開講する話が具体化し、SFCからご登場願った花田先生に会い、今後についてセントジョセフ側の担当の先生方と打ち合わせを行うためだ。
それにしても、時のたつのは早いもので、前回の訪問からすでに1年以上が過ぎていた。いまはセントジョセフ大学で日本語講座を孤軍奮闘で、立ち上げから教材の準備、授業、コースの運営に大活躍の三枝奏さんの研究発表を、前回は地中海に沈む夏の終わりの夕陽に照らされながらみなで伺った。そのとき滞在していたのが、西ベイルートムスリムが多く住む地域のダウンタウンである。僕はホテルの前で、一見のんびりとしかし虎視眈々と客を待つタクシー運転手にレバノンを見ていた。一見のんびりの部分が、シリアと重なって、確かにかつては大シリアと呼ばれただけの連続性は今も確認できるななどと一人で合点がいっていた。
今回の滞在は、前回の訪問以降、関係が築かれつつある(三枝さんどうもありがとう)、セントジョセフ大学が用意してくれた。場所は、キリスト教徒中心の東ベイルートの中心、アシュラフィーエであった。空き時間に三枝さんの案内でショッピングコンプレックスを見せてもらったが、これは、グローバル経済の落し子のような代物。ベイルートにこんなものができているのかという驚きと、西側の大都市であればどこにでも見出される、見慣れた整然さに安堵を覚えた。
信号の数が、より正確には、きちんと作動している信号の数が極端に少ないのもベイルートの特徴なのだそうだが、ここの街では、自動車が歩行者に道を譲っている。世界の高級車の勢ぞろいにも驚くが、これらは、エゴを控えるすべも知っているかのようだ。自動車の世界からみれば、明らかに成熟した民主主義がある。(だからというわけではないだろうけれど、タクシーは高い!)
ベイルートが圧倒的に西側を向いているのは自動車の世界だけではない。セントジョセフ大学もまた同様で、フランス系の私立大ということはあるけれど、授業はフランス語、花田先生の講義の担当者もフランスの大学で博士号を最短で取得して帰国したての若手のホープといった女性教員。同大学の情報科学専門の建物群はベイルートと地中海を見下ろす陸の上に居を構え、ベリテックと名づけられている。
そんな、圧倒的に西向きのこの大学に東を見ろといったのが、日産のカルロス・ゴーン社長だという。去年の夏にわれわれをこの大学に紹介してくれた在レバノン日本大使館の文化担当官佐川氏の話によると、カルロス・ゴーン氏は、同時にこの大学の評議委員。彼が、日本の経済、経営について学びなさいという話をしたのを受けて、大学側が学長以下こぞって交流の相手を探していたのだという。そういう流れの中で、日本語講座が今年の初めから立ち上がり、それに引き続いて、今回の経営、経済講座へとつながっていった。セントジョセフ側は、さらに交流を活発化させたい意向。ASPレバノンから三枝さんの学生を招く日もそう遠くないかもしれない。
それにしても、日本を見なさいといったら、その日本側の担当者が、シリアからアラビヤ語をしゃべりながらやってきたというのがなかなか楽しいと思っている。レバノン人にとって、シリア人というのは、自分たちが決して振り返ってはいけない過去みたいな感じがある。正則アラビヤ語など、レバノン人の日常会話では死語に近いかもしれない。ベリテックを訪ねたときなど、日本人が、われわれですら戻ることのない「アラビヤ語」をしゃべるなんてなんて珍しいって感じで、アラビヤ語でしゃべることを歓迎してくれた(誤解のないようにいっておけば、十分に理解はしてもらえるのだが、彼らはしゃべれないということ)。日本と中国の感じと少しだけ似ているといえば、わかってもらえるだろうか。
そんなことを言えば、レバノン自体が日本ととてもよく似ている。勤勉で実利的な国民性、あちらがヨーロッパなら、こちらはアメリカ。あちらがシリアならば、こちらは中国。しかし、SFCにしてすでにそうであるように、世界の知恵をくまなく集めなければ、時代を先導する変革も、持続的な発展もありえない。日本と交流しようとしたら、イスラームの専門家がやってきた。来月は中国の小島先生が、セントジョセフで講義を担当される。セントジョセフ大学にSFCのそんな総合性が伝わってくれればいいなと考えている。

イスラームにおける人権 حقوق الإنسان في الإسلام

November 14, 2005
アルジャジーラの人気番組の一つに、「シャリーアと生活」がある。カラダーウィー氏が登場して、毎回異なるテーマでの講義と視聴者からの質問に答えるという1時間弱の番組である。昨日のテーマが「フクーク=ル=インサーン(人権)」であった。番組は、先日のヨルダンの爆破事件で亡くなったイスラーム世界の誇る映画監督、ムスタファー・アッカード氏への追悼ではじまった。彼の代表作は「リサーラ」。UCLAで映画を学び、以後第一線で活躍されてきた巨匠である(詳しくは、奥田研出身でアラブ映画研究の草分け的存在の佐野光子さん(現在モロッコに取材旅行中)に譲りたい)。このような人物をはじめ、無辜の市民を巻き込んだ今回の事件に対する非難から、講義は始まった。つまり、イスラームの予定する人権とも相容れない今回の爆破事件なのである。
今回の放送の聞きどころは、「人権」について何か新しい観点が追加されているか否かであった。カラダーウィー師らの見解にも依拠しながらイスラームの人権についての拙著(『イスラームの人権』慶應義塾大学出版会)がようやく書店に並んだのが今月の初めだった。少し気が早いけれど増補版のためにも新しい情報(あるいは書き漏らした情報)があればと考えていた。結論からいえば、新しい見解は特に示されていなかった。むしろ、西欧の人権概念にイスラームの人権概念をあえて当てはめようとして、かえって、議論が矮小化されてしまっていたところが気になった。
権利や自由が十分に認められていないのではないかといった問いかけに、西欧の土俵に降りていくと必ず失敗するのである。イスラームでは、権利より義務、自由より平等や正義が重視されるからである。しかし、イスラームのいう権利と義務、あるいは自由と正義がよって立っている地平は、西欧の法制史でいう、権利や自由がよって立っている地平とは次元が違うのである。イスラームのほうは、たとえ社会の事柄であっても、あくまでも宇宙の摂理イスラーム的には神の摂理ということになるけれど)が念頭に置かれているけれど、西欧のほうは、彼らの歴史が念頭に置かれているに過ぎないからである。
ちょっと乱暴だけれど、そのくらいの違いがあるので、権利や自由が制約される瞬間が体系のなかに予定されているのは、当たり前のことなのである。象徴的には、「死」である。権利や自由をいくら主張したいからといってもいつかは人間死ぬという意味での「死」から人間は逃げることができない。西側では、「死」も権利をして認めよといっているけれど、これは明らかに「生」に対する、あるいは、宇宙に生きていることに対する冒瀆といえる。
したがって、人権が論じられる土俵を混同すると足を救われてしまうのである。社会が方を作り、習慣が法を育てる、西側の法制度とは、基本が違うのである。ようやく、国家の枠を超えた人権を論じるところまで、西側の法の認識が到達したということに過ぎないのである。したがって、イスラーム法の役割は、そのようやく芽生えてきた西側の意識を正しく育てることへの寄与以外にない。決して、歴史的現実に埋没する形での議論に終始してはいけないのである。そのとき、西側が人権の議論からさらに進めて、グローバル・ガバナンスや人間の安全保障というところまできていることを考えると、それをリードできるのもイスラームの教えをおいてないのであって、人権の議論に終始していてもいけないのである。
昨日の番組は最後の最後になって、西側の法が予定している人間は、欲望の担い手としての人間であり、イスラームの予定している人間が、抑制の効いた人間であるという対照にたどり着いた(番組では動物としての人間と人間としての人間とされていた)。人権というときの「人」の指すものが違うのである。少しだけほっとしたけれど、確かに、イスラーム世界の現実は、イスラーム法が教えとして予定している懐に深さや広さを見失わせるほど、厳しくかつさびしいものだ。アンマーンの爆破事件で亡くなった人々に哀悼を捧げるとともに、世界のメディアに決して伝えられることにない理不尽な死を強いられている人々に思いをはせた。
冒頭に触れたアッカード監督はアレッポ出身。本日、アレッポに棺が到着。多くの市民が悲しみにくれたものと思われる。