厳しい現実 وضعنا ليس بسيطا

December 07, 2005
靴をなくした話が挨拶代わりになった今日である。「日本からはるばる来ている大切な客の靴が盗まれるとは」と嘆くことはあっても、靴泥棒自体に驚く風は一切ない。どこのモスクで祈っていたかを聞いて、あそこは特に気をつけないとという具合。モスクへ出かけるときには、盗まれてもよい(あるいは盗まれようのないような)古い靴に履き替えていくものだそうだ。どうしても新しい靴を履いていかなければならなくなったときには、キース(ビニール袋)にいれて、礼拝中も自分のそばから離さないようするものでもあるらしい。しかも、話をした人がみな一度ならず被害にあっているというから、半端ではない。むしろ、そういう目に今まで一度もあわずに済んでいたことを感謝したほうがよさそうだ。
「モスクで盗みを働くなんて」という疑問に対する答えも明快だ。「泥棒に、場所は関係ない」。巡礼団に紛れ込んで、女性に悪さをする輩もいるということで、それに比べればまだかわいいというところだろうか。しかし、どうしてこれほどまでに人々の意識が低下してしまったのか。今日は、2つのレッスン、すなわち、朝1番のフサーム先生のところでも、その後のムサアブ医師のところでも、話はそのことに及んだ。
思いもかけず、シリアの近代史をさかのぼることになった。二人の話を総合すると、人々の意識の低下は今日や昨日に始まったものではない。
まず、80年のムスリム同胞団の事件である。この事件以来、シリアの一般の人々は宗教に近づくことを極端に恐れるようになったという。その理由は、自宅の本棚にイスラーム関係の書物があるだけで、疑いをかけられたという話で十分であろう。僕が始めてシリアに来た90年ごろはまだこの雰囲気が十分残っていて、宗教と政治の話は、絶対するなというのが、当時の研究者の鉄則だった。
次に、第1次世界大戦である。これを契機にシリアではフランスの統治が始まるが、宗教教育が著しく制限され、オスマン朝時代には厚遇されていたモスクの運営の人員や予算も削減された。イマームたちはじめモスクで働く人々に支払われていた給与も大幅カットの憂き目にあった。20世紀のはじめにはアーディリーエのモスクには19名の職員がいたとされるが、それが今では6名。フランス統治時代のままなのである。(因みに、イマームの給料は、2400シリアポンド(月)。公務員の平均給料の約半額。不足分は、人々の浄財から得ているという。即断は禁物だが、ザカーが困窮者に回らないのもうなづけるような気がする)
ムスリム同胞団の動きも、西側の近代化に触発されて始まったという経緯があり、しかもその目的は、社会全体に宗教的な安寧を実現していくというより、政治権力の奪取に重心が置かれていた。これも、シリアの一般の人々に対するイスラームの覚醒には程遠かったのかもしれない。
さらに、オスマン朝時代。宗教が人々の生活から離れ、法学を中心としてものになってしまったという話をフサームさんは付け加えてくれた。宗教が法学を中心とした宗教「学」になってしまったのである。
こうしたことが、積もり積もって今の状況が作られているというのである。アレッポには、シャリーアの高校はいまだにひとつしかなく(工業や芸術の高校はいくつもできたのに!)、いわゆる専門学校(マアハド)はあるけれど、それを出ても、ダマスカス大学のシャリーア学部入学に何のメリットもない。これらは、すべてフランス委任統治時代そのままの状況なのだという。
さらに、危惧すべきは、90年以降のグローバル化下の状況である。ムサアブ医師の話によれば、中学や高校で勉強を止めてしまう若者が増えているというのだ。勉強など続けていたのでは、いつまでたっても携帯電話やインターネットに費やすためのお金が稼げないからだ。「勉強しろ」と強制されるのも嫌っているらしい。私立大学の設立が大量に認可されようとしている今日のシリアで、日銭の稼げる単純労働に身を費やしていく若者たち。ああ、ここでも貧困の再生産が、そして人々の家畜化が、怒涛の勢いで進行中だ。
エリートと呼ばれ、信心深いとされている人々でさえ、専門家の目からすれば、イスラームの教えについてほとんど知らないのが、現状だとムサアブ医師は嘆く。ムサアブ医師が彼らから受ける質問の大半が、初心者の域のものだという。金曜の礼拝で、イマームの話を聞く以外にイスラームについて学ぼうとしない人々が大半だという現実も厳しい。
靴の紛失事件は、アレッポというムスリム社会の現実とその裏側を教えてくれている。こうした現実にもかかわらず、フサーム先生やムスアブ医師のように戻るところを見失わず、日々努力を怠らぬ人々が存在し続けるというもの、この教えの偉大なところであろう。クルアーンという書物の存在はいかに大きいことか。アッラーフに感謝しつつ。