「月」を見よ انظروا إلى ما يدل الواقع عليه

December 24, 2006
レバノンに滞在し、アラブ映画の研究を続けながらセント・ジョセフ大学で日本語講師を務める佐野光子さん(SFC研究所上席研究員)からメールをいただいた。そこには、親シリア派と反シリア派の抗争が、ついに家庭の中にまで持ち込まれて、家族の中でさえ無為な言い争いが起きているという、一発触発の緊迫したベイルートの様子が綴られていた。人々は精神的な内戦状態に追い込まれ、ベイルートが、あるいはレバノンという国が崩壊の危機にさらされている情景が目の前に広がった。
実はその前日、毎日新聞が反シリア派連合指導者のサアド・ハリーリー氏(昨年2月に暗殺されたハリーリー元首相の次男)との単独インタビューに成功したといって、顔写真入りでその内容を大きく伝えていた(12月23日毎日新聞朝刊(東京)13版2面)。そこでは、レバノンの破壊工作は、イランとシリアが黒幕なのだという主張が紹介されていた。もちろん、この主張は、レバノンの政治状況そして彼の立ち位置からすれば当然の内容なのだが、国民不在のヒズボラ批判、犯人探しの主張であることが気にかかっていた。外部のメディアに対しても彼らはその対立の構図の中でしかものがいえていないのである。
毎日の見出しはそれに輪をかけるものであった。『「イランとシリアが主導」』と4段抜きの見出しを掲げている。明朝白抜きのこの見出し、シンプルであるがかなり目立つ。黒の背景は深刻さを演出している。見出しにカギ括弧をつけそれが彼の言葉であることを示そうとしているところに、毎日新聞の良心を感じることはできるが、しかしながら、一般の読者はカギ括弧の有無まで気にするはずはない。もしもそこから受け取るメッセージがあるとするならば、「ここでもイランとシリアは悪者」といったところであろう。政治指導者の視野からもメディアの視野からも、そこに暮らす人々の視点が欠落しているのみならず、責任転嫁まで行なっているのである。
アメリカ型のオリエンタリズムを称して「中東の生き生きとした現実はついに語られない」と嘆いたのはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』であった。オリエントの真実がいかに語られないのかを執拗にあぶりだし、アメリカを中心とする西側の政策やジャーナリズムに突きつけた問題は鮮明であったように思われる。サイードは20世紀の後半を代表する論客としてもてはやされたが、彼の主張が少しでも真摯に受け止められたのかというと、同じ間違いを、あるいはさらに増幅された間違いを犯してはいないであろうかと心配になる。9・11以降はオリエンタリズムに著しい偏重がもたらされたと筆者は見ている。翌日の毎日新聞の社説では、シリア黒幕説がにわかには受け入れられるものではないことが賢明にも指摘されてはいるものの、瀕死のベイルートの情景はとうとう浮かんでこないのである。
「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」。佐野さんが学部時代に研究していたイラン映画の巨匠、ムフセン・マフマルバフが、『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室、2001年、105頁)の中で中国の諺として引用した言葉である。破壊された仏像ばかりに気を取られ、崩れ落ちた仏像が指し示していたものを見ようとしない世界に対する警鐘であったが、相変わらずわれわれは「指」ばかり見てしまう「愚かな」状態にありはしないか。せめて大学での研究だけは、「月」を扱うようにしたいものだ。

飛び続ける鳥はいない

December 17, 2006
人間が自由を語るとき、鳥は欠かすことのできないメタファーである。♪この大空に翼を広げ飛んで生きたいよ〜を引き合いに出すまでもない。2次元の世界を例外的にしか離れることのできない人間にとって、3次元の世界を飛び回る鳥たちは、たしかに自由の象徴足りうるのである。海、山、川などの自然的な境界から、城壁や家の塀、さらには国境、あるいは男女、家族、民族などの境まで、人間はさまざまな境に囲まれて生きているが、鳥になれば、たしかにそれらの境界を簡単に越えることができる。
 自由とはしたがって一次元を足してあげることということができそうだ。先週の研究会で取り上げられたメルニーシーの『ハーレムの少女、ファーティマ』では、しかしながら、ハーレムという境界によって外部から仕切られた空間の中で、そこにとどまりつつも幸せにはなれると説く老祖母の言葉と、そこを出なければ幸せにはなれないと娘に聞かせる母親の言葉の間で戸惑うファーティマの心を垣間見ることができた。
 自由は人間の幸せを意味しない。女性がそして子供が外部から完全に遮断され守れられる空間としてのハーレムの外に幸せがあると思えるのは、外を知らないからだけなのかもしれない。クルアーンはルクマーン章の中で、男は自分の家族を地獄の業火から守らなければならないとその責任を説く。それは、家族をハーレムの中に囲い込むことではなかったはずだが、結局、いちばんの安全策が取られた格好である。しかし、こうした慎重すぎる選択は、それが昂じると当の人間たちを堕落させ、苦しめる。
 かごの中で飼いならされた鳥が、決して野生に戻れないのと同様に、ハーレムの中に囲い込まれた人間は、野生など比べ物にならない「無限大のドット」が織り成すような自由を生きる術を忘れてしまうのかもしれない。そうであるとすると、ハーレムは、もともと家族を守るというイスラームの教えに即したものであったとしても、そこに暮らす人々は、決してイスラーム的ではないということにもつながりかねない。
 研究会で発表を行なった学生は、ハーレムから出るというフェミニズム的な自由論よりも、むしろ、ハーレムが守っている男女の間の境界が、日本の社会では溶けてなくなってしまっていることに着目し、倫理の必要性を説いた。越えたからこそつかめる幸せがあることは事実だが、越えてはいけない境界があることも人間の知恵は教える。鳥も飛び続けているわけではない。翼を休める場所は持っているのだ。
 そう考えてみると、自由は安らぎのなかからはぐくまれ、安らぎは自由があるからこそ安らぎ足りうることがわかる。幸せとは、にもかかわらず、守られていること。ハーレムの外側にあってもなお、いやあってこそ、人間を導き、お守りくださるのがアッラーなのである。

*鳥と自由:「かもめはかもめ」では、「クジャクやハトやましては女にはなれない」といって相手からの別れを歌うときに使われていたのに対して、「あなたの空を飛びたい」では、逆説的に、特定の相手への愛を捧げるために用いられていた。

アッラーは被造物と相容れない〜中沢新一著『三位一体モデル』の印象〜

December 02, 2006
「『三位一体モデル』という本が売れているらしいですよ」と、大学院生のスライヤーさんが教えてくれた。著者の中沢新一氏は、関心領域に重なるところがあるし、彼の著作は授業などでも紹介したこともある。アマゾンの即配サービスで今届けられ、チラッとあけてみてびっくり。
 何と、開けたページに、「アッラーとは「存在」という言葉と同義です。すべての存在世界は、唯一つの神であるアッラーからできている、と考えられている」とあるではないか。。。これはおかしい。「存在」はアッラーの属性の1番目ではあるが、そのものではない。イスラーム神学の基礎の基礎である。しかも「すべての存在はアッラーからできている」なんてありえない。アッラーが創ったであればよいけれど、「アッラーからできている」とはいったいなんであろうか。
 さらに、「イスラームからしてみると、私たちはすべてアッラーです」とやってくれている。「私たちがすべてアッラーです」と???。これは、イスラーム的には絶対的な不可能に属します。ありえません。
これにはさらに「アッラーは目に見えません。目に見えないものが、現実世界にあらわれてくると、ひとつひとつの存在者がかたちづくられるようになります。植物もアッラー。風のそよぎも、クーラーも、めがねも・・・・ぜんぶアッラーです」と丁寧な説明までつけてくれている。
 ひどすぎる。「アッラーは目に見えません」。これは正しい。しかし、「現実世界に現われてくる」という現われ方はしません。アッラーはあくまでも創造者です。創造者が自分の創造した物と同じなどということは、論理的にも起きないのではないでしょうか。イスラームの教えでは、植物や風やクーラーにアッラーの印は見出しますが、それら自体がアッラーになることなど、決してありません。
 アッラーが40の属性によって整理されていることを知っているのでしょうか。中沢先生は。。。しかも、一神教の唯一性を「アッラー=存在」の等式からしか説明できなかったのでしょうか。そもそもクルアーンのいちばん最初の章に「万有の主」とアッラーのことが言い換えられているけれど、それもご存じないのでしょうか。アッラーは「万有の主」であって、「万有」ではないのです。
 ぱっと開けた15頁から16頁がこの調子のこの本、おそらく日本人の宗教に対する理解の低さを露呈した一冊になってしまっているのであろう。そうなると三位一体についての理解も疑義をさしはさみたくなる。またまた、日本人を本当の宗教から遠ざける1冊の登場ということだろうか。
 ところでつい先日も同僚の徳田先生が、IT技術の進化を一神教から多神教、そして汎神教への移行として捉えた「神様はどこにいるの?」という文章を書かれていて(『創発する社会』(国領二郎編著、日経BP出版センター))、彼の言っている神様はとても「アッラー」とはいえないなと思ったばかりであるが、中沢氏のイスラーム理解を重ねると、徳田先生のユビキタスコンピューティングは、イスラームそのものというご本人がまったく意図していない結論にもなりかねない。ほんとうに『イスラーム神学50の教理』の改訂あるいはそれに代わるものの作成を急がなければならない。
 「おもしろかったわ! この薄さが、ありがたいね。(後略)」とは帯についているタモリ氏のコメント。読者諸氏の見識に頼るほかはなさそうである。

無限大のドット نقط لانهائية

June 10, 2006
唐突ではあるけれど、1−∞という計算について、答えを知りたくなった。無限大というのは、この場合人間の霊魂を表わし、「1」は1人の現実の人間を示す。1+∞=∞であることは、「無限ホテルに満員なし」というたとえで頭に入っていた。「1」という現実の人間に無限大を足すと、答えは無限大。つまり掛替えのない存在と解く。
 では、1−∞はどうであろうか。考えた答えは二つ。無限大は、少なくとも1より大きそうなので、「0」になるという答えがひとつ。いまひとつは、1+∞=∞ なのだとして、無限大を移項させあう。すると、1−∞=−∞という数式を得ることになる。「0」になれば、すなわち「1」という存在はなくなる。つまり、「死」。これに対して、「−∞」ということは、永遠のマイナスの生、つまり永久の火獄に落ちるということなのか。しかし、正負というのは、無限大についても成り立つのであろうか。直感的には、無限大と、マイナス無限大は同じもののような気もする。
 ここまで考えて、数学を専門とする同僚の河添先生にメールで質問してみた。すると∞は数学上の重要な概念ではあるものの、数ではないので、「1」などの有限数といっしょには扱われないというのが一応の原則とされた後で、しかし、そこからいろいろな解釈をするのは面白いですねというお答えをいただいた。1−∞に決まった答えはないということのようだ。つまり、正統的な数学では、水と油を無理やり混ぜるようなことはやらないのである。なるほどゲーデルはいまに至っても変わっているのだ。ただ、質問の背景として、ぼくは、「∞−1=∞」が、「無辜の人を1人殺すことは全人類を殺すに等しい」であり、「∞+1=∞」は「一人の命を救うことは全人類を救うに等しい」とイスラーム的には解釈できるという話を書いてみたのだが、こうした解釈の可能性を数学は否定しないという心強い回答もいただいたのでもあった。
 しかし、そのやりとりの過程で、数の連なりは、数直線を使って考えることができるのだが、もしそこへ、無限大という考えをはさむのならば、それは、その数直線の向こうに円をなす不可視の点の集合を考えることですという興味そそられるお話が出てきた。
 なるほど、線分の先に点の集合を考えるか。確かに自分の机の上でノートに書いた線分も、その両端を延ばしていけば、やがて地球を一周して、線分のもう一方の端につながるはず。ずいぶんと大きな円が出来上がったものだ。しかし、円の意味はおそらくそういうことではない。自分の机の上はもちろん部屋の中も家の中も、地球も、宇宙も、ドットに満たされていて、そのドットの連なりのある部分を選び取るのが、線を引く行為なのではないかと思い当たった。
 線が引けるのは、そのドットが用意されているからということにもなる。無限大の可能性の中から線を引いているのだが、しかし、それでもドットがあるからこそ線が引けるのである。これは、アッラーの神慮と天命に従わざるをえないのに、なお人間が自由であるのはなぜかというイスラーム神学の重要命題を考えるヒントにもなる。つまり、人間が引く線は、無限大のドットの集合の中からの選択なので「自由」なのだが、しかし、無限大とはいえ、用意されたドットの集合の中でしか線が引けないのが、「神慮と天命に従っている」ことの意味なのである。このように、無限大のドットとその中から選ばれた線分のアナロジーで考えれば、「人間は、神の意志の支配下にあって一切の自由意志をあたえられない」という決定論にも、また「人間の意志は絶対で、神の意志とは無関係にそれを発揮することができる」という自由意志論のいずれの極端にも陥らずにすむ。
 つまり、無限大のドットに満たされた世界の中から線分を選び取っていく、これは、創造主たるアッラーととアッラーに創造されながらもなお自由を与えられている人間の生き方そのものを示すに足るアナロジーでもあるのだ。
 このドットと線分の関係にも「1−∞」が当てはまるところがある。「1」は、この場合、無限大のドットの中のひとつ。その「1」から無限大を除く。つまり、「1」の周りの無限大のドットをとってしまう。すると、そこに残るのは、線の引きようのない「1」、動くことさえできない「1」である。自由を奪われ、身動きが取れなくなった「1」がそこに残る。「自分教」といわれるむなしい信仰の孤独と危うさでもありそうだ。それを数学的にどう表現したものかはわからないけれど、「1」は「∞」があってこそなのであって、「無限大のドット」に満たされた世界が用意されていること、さらに言い換えれば、「無限大のドット」を用意した存在があればこそ、「1」足りうるということを忘れないようにしたいものだ。
 さて、人間から霊魂を引くとどうなるかという定式が「1−∞」と冒頭に書き出したが、人間を「1」とだけ表わしたのでは、不十分であることが、上の無限大のドットと線分の関係からもわかる。それは、「1+∞」でなければならない。したがって、人間から霊魂を引くとという定式は、「(1+∞)−∞」となる。つまり、「∞−∞」。それは、「∞」。掛替えのない存在という答えが残ったように思うが、それは人間の目から見た場合の答えに過ぎない。
 アッラーの存在は、無限大に優る。無限大を創ったのも彼だからだ。無限大とはいえ際限のあるものから、際限のあるものを引く。答えは「0」。人間から霊魂が失われるということは、究極の「0」つまり最後の日の到来なのかもしれない。最後の日の審判は、人間のすべての行いに対する審判。これ以降は、行いに対する見返り(よいことに対してはよく、悪いことに対しては悪く)が永遠に続く。つまり、ここを基点として現世と来世のバランスが取られるのだ。秤の中心。究極の数直線の「0」である。イスラームでは、最後の日が近づく兆候というのをあげて、人びとが霊魂とは無関係な野放図な生き方(つまり、無限のドットもまた与えられたものであることを忘れた生き方)をすることに警告を発している。その警告のいくつかが、間違いなくこの時代に当てはまっている。アッラーはすべてを御存知。

6月はじめから最高気温40度!

June 08, 2006
夜中に、頸の周りの汗で起こされるというアレッポではあってはいけないことが起きてしまった。たしかにアレッポでの住まいは5階建ての建物の最上階。1階や地階とはそれなりの温度差があるのはわかる。しかし、東側の窓は締め切りで、南と西が塞がり、主に北に面しているこの部屋で、夜中の2時半に暑さで起こされるとは。。。アレッポの夏のよいところは、昼間どれほど暑くても、夜になれば、20度近くまで気温が下がり、熱帯夜にはならないというかつてすんでいたころの経験律が、夜中の暑さにもろくも崩れ去ってしまったのである。
 しかし、では実際にどれほど暑いのかは確かめてみたくなり、温度計を購入してみた。計ってみてまたびっくりであった。朝5時の部屋の中の温度が31度なのだ。ベランダで計ってみても28・5度。暑いはずだ。熱帯夜なんて生温いものではなく、夜なのに夏日だったのである。どうりで暑いはずだ。ちなみに昼過ぎにレッスンから戻ってきたときの室温は、38度。熱風の吹き込むタクシーに揺られて帰って来るから、それでも涼しく感じてしまうほどだ。天気予報を見てみて、またまたびっくり。シリア北部、最低気温23度、最高気温40度と前の日にいったかと思うと翌日は、25度・40度なんて言っている。そうだったのか。もう40度を超えていたのか。
 シリア滞在のぼくの教訓のひとつに、「気温が体温を超えた日にものを書いてもまともなものに仕上がらない」がある。かつてシリアに住んでいるころ、真夏に仕上げた論文があるのだが、編集の方に本当に申し訳ないくらいに、校正稿が訂正で真っ赤になった。とにかく日本語がひどいのである。文も悪ければ、文と文のつながりも悪い。いろいろ原因を考えてみたけれど、「暑さ」以外に考え付かなかった。その夏も暑くて、連日予想最高気温が40度を超えていたのである。
 そんなことなので、今回の滞在も、7月末から8月にかけては、シリアにいても仕事にならないと決めて、大学が学期末でもあるので、そこは帰国しようと決めていたのだが、6月から40度とは。カスピ海あたりに高気圧が居座り、そこから熱風が吹き出すという仕組み。この北風に曝されるとアレッポはアラビヤ半島の砂漠とも対した気温差がなくなってしまう。9月になれば、コンスタントに西から風が吹くようになる。これは冷風である。したがって、夏にすむ家探しのポイントは、西側が開いていること。アレッポの町全体を見ても、お金持ちたちの家は、西の郊外に延びている。
 ところで、人間の意志や力が、神に並びうるという考えが、かつてのイスラーム世界の哲学論争にあった。人間に意志や力があれば、神は不要であると、近代以降の西側世界は考えている。しかし、この暑さを前に、それでも、人間の意志や力が絶対だなんてとてもいえない。大気の温度を1度だって下げることはできないではないか。気圧配置がこうなると暑くなり、こう変わると涼しくなるという説明はできても、気圧の配置を思うように動かすことは人間にはできない。人間の意志や力の及ばぬものが、そこにはあるのだ。そしてそのことを忘れないために、「神」がそうさせているのだと考えるようにする。人間がつねに謙虚であるための知恵だ。
 さて、この暑さの中で人間のしていることは何か。部屋の中の温度を下げようと冷房のスイッチを入れる程度のことだ。郊外に大型の火力発電所が完成し、停電とほとんど無縁になってこの町では、ここ数年で冷房機が大流行。この暑さに、町中の冷房気のファンが昼夜を問わず回っている(かつて停電になると備えのある家で動き出した自家発電のエンジンの音が懐かしい)。《人間の手が稼いだことのために、陸に海に荒廃がもう現われている》(ビザンチン章41)とクルアーンはいう。最低気温が23度とされているのに、町の中心では28度にしかならないというのは、紛れもなくヒートアイランド現象だ。上の聖句は続けて、《これは(アッラーが)、かれら(人間)の行なったことの一部を味わわせ彼らを(悪から)戻らせるためである》(同節)と教えている。
 昨晩は気温がぐっと下がって、今朝5時のベランダは、23度だった。外気を5度下げることなど、アッラーには容易い話。アル=ハムドゥリッラー。

ユダヤ人とは、「悔悟して真理に戻る人々」である

May 30, 2006
アラビヤ語を訳していて時々思うことだが、ハンス・ウェアは収録の語数が多くて頼りがいのある辞書だけれど、それだけにそこに何かがあると、大きな誤解やすれ違いが生じてしまうと。遅ればせながら、それについて、ひとつ発見があったので、報告しておきたいと思う。
 それにしても「ユダヤ人」、とくに「イスラエル人」は困った人たちである。パレスチナの一般市民に対していまも攻撃の手を休めない。一般市民にミサイル攻撃はない。今日もアル=ジャジーラのニュースは、昨日のミサイル攻撃で命の落とした人々の葬儀の様子と、「シャロン後もシャロン時代以上に強硬だ」「イスラエルはいまの形のパレスチナには独立を認めたくないのだ」という現地からのコメントを伝えていた。強迫観念にかられたといういうべきか、この執拗なまでの敵対と攻撃は、イスラエルという国家の成立自体に正当性に欠ける部分があるという事実とは別に、ユダヤ人の法がもっている、攻撃性に思い至らないわけにはいかない。
 カラダーウィーの解説によるユダヤ人の法では、ユダヤ人以外に対する殺戮、略奪、搾取は、許されると特質があるという。選民思想の裏返しである。「盗みをしようとして塀に進入しようとしている者は撃ち殺してしまっても罪にならない」というルールも出エジプト記にはある。後に「ユダヤの教えを完全なものにするために遣わされた」イエスのもたらしたルールが、極端に救いと安らぎに満ちていることが示すように、ユダヤのルール自体は、苛烈で厳格なのだ。「ユダヤ人は、他人を許すことも認めることもできない。キリスト教徒は、他人を許し、不寛容に対してもなお寛容であり続けようとする人びと」だと、ぼくは思っている。
 すでにいろいろなところで述べているように、クルアーンでは、罰することも許すこともできる。ユダヤの教えがテーゼ、キリストの教えがアンチテーゼなら、イスラームの教えは、ジンテーゼだ。クルアーンに下されているユダヤ人の物質主義は相当なものである。モーセ十戒を授かって民のもとへ戻ってみると、金色の仔牛を祀ってそれを崇拝していた。モーセは怒った。やりきれない。怒りがようやく収まると、仔牛を崇拝していなかったものの中から70名をつれて、神に謝りにいくことになる。ところが、約束の場所に着くと、この70名が、モーセに迫る。「神の声がききたいと」。モーセが呼ぶと山全体が雲に包まれて、70名は、モーセが神と話しているのは聞く。すると、次は「みたい」と言い出す始末。これには神が怒って、彼らは天からの火に襲われ焼かれてしまう。彼らが死んでしまうとモーセが起き上がり、アッラーに泣きながら訴える。「イスラエルの民になんといったらよいのでしょうか。あなたは、最善の者たちを滅ぼしてしまったのです」。モーセは彼らの復活を祈り、一昼夜して、アッラーは彼らを再び生かしたのである。(雌牛章55・56、サフワおよびイブン・カスィールの注釈)。そして神に対するモーセの言葉、「わたしたちは悔悟してあなたに戻りました」が発せられる。
 この、「悔悟して神に戻る」という動詞が、「ハーダ」であり、その未完了形が「ヤフード」となる。ここで、「ハーイダ」という現在分詞の形をとっていないから、「悔悟して戻るかもしれないし、戻らないかもしれない」というのが、「ヤフード」の意味になる。モーセは、「ホドゥナー」つまり、「わたしたちは悔悟して神に戻りました」と言ったのだが、その思いとは裏腹に、アラビヤ語的には、ユダヤ人は、未完了形のままに置かれている。
 ところで、ハンス・ウェアーで、「ホドゥナー」つまり「ハード」を調べても、「ユダヤ人になる」とは出てくるが、「悔悟して神に戻る」という意味がそこには書かれていない。手許にあるアラビヤ語アラビヤ語辞典「ムアタマダ」には、「悔悟して真理に戻る」という意味がまず記されている。しかも、ヤフードの語も、ハーダの見出し語の下に収められている。もちろん、ユダヤ人の語義を上のクルアーンの話から知っていれば、ハンス・ウェアーで十分であるし、ユダヤ人の語源は、「ヤハベ」にあるという考えももちろんあるので、アラビヤ語からの理解がすべてではない。しかし、クルアーンもアラビヤ語も知らない人――だからハンス・ウェアーの厄介になるわけだが――には、ホドゥナーやハーダの意味も、ハーダとヤフードの関係も見えてこない。
 このハンス・ウェアの記述が意図的なのかどうかは別としても、ホドゥナーの意味を正しくたどれないのは問題だ。パレスチナ人に対するイスラエルの攻撃は、物質主義や厳罰主義や過酷主義、つまり、モーセが「ホドゥナー」という前の主義主張に囚われたままのようでさえある。せめて、イスラエル人自身にも、また周りにも、彼らが天からの火に討たれながらも復活を許され、このモーセの「ホドゥナー」の使命を未完了形ではあるけれども背負った人々なのだという認識が、もう少し強くあってくれれば、事態は変わるのではないかと思いたいものだ。

種をまく努力

May 27, 2006
この時季、シリアでは学年末にあたる。2学期制で、学期末はもちろん中間試験も行わないこの国では、学年末の全国統一試験が、進級やら卒業やらのすべてを決める。直前の追い込みで、バナナさんのところのムハンマドも、マンスール先生のところのアーシム(二人はともに大学への進学がかかったバカロレアを呼ばれる高校最後の試験である)も、ムサアブ医師のところで雑用係を務めるアフマドもそうだ。
ところで昨日のサビールのモスク(家にいちばん近いモスク)の説教もこの話題だった。試験の季節が始まりますねと。単に応援してあげましょうというのではない。これを機会に「もうひとつの試験」を思い出しましょうという趣旨だ。もうひとつの試験とは、すなわち、最後の審判での裁きのこと。二つは同じ試験でもいくつかの点で異なる。
ひとつは、日が決まっているかいないか。そう、学校の試験に限らず、現世での試験は、日が決まっている。だから、準備もするし、準備もしやすい。これに対して、最後の日の試験はいつやってくるのかわからない。準備は怠りがちだ。だから、こういう機会に思い出そうということになる。
次に、問題が分かっているかいないか。俗世の試験は、問題が分からない。さて、何が出るのか、ここに勉強の余地がある。これに対して、最後の審判の問題は、一人一人が皆知っている。現世において自分の意志でやったことのすべてが裁かれるにすぎないからだ。他人の罪を負わされることはないが、一切ごまかしはきかない。「試験に出なかったので助かった」なんてことが俗世の試験ではよくあるけれど、あちらの試験はそういうわけには行かない。
さらに、俗世の試験は、その気になれば金で買うことができてしまう。学校の試験だけではない。学位なんていうのも金で買える。イマームのこの説明には目を見張った。この金で買える学位に、この国では宗教界までもが巻き込まれている見方もあるからだ。最後の審判は、お金ではどうにもならない。
最後に、俗世の試験の効用は、短い。試験に受かって何かの資格を取ったとしても、所詮は、生きている間のこと。たとえうまくいかなかったとしても多くの試験の場合には、次のチャンスがある。これに対して最後の審判のほうは、それが最後だ。その結果で永遠の生のありかが決まるし、もちろんやり直しもきかない。
ここのところ、パレスチナへ皆さんからの支援をというないような説教が数週間続いていた。これも、宗教が政治に買われている状況と見ない人がいないわけではなく、身の回りの問題をさておいて、パレスチナパレスチナと連呼するのもいかがかと考えていたので、身近な話題の説教に、昨日は少しほっとした。
アラビヤ語で農業に当たる言葉(ズゥラーア)の動詞形は、「種をまくこと」である。耕すことではない。クルアーンの中に、種をまくのは人間たちで、芽を出させるのはアッラーであるという趣旨の聖句がある。努力は人間がしなければならないのである。座っていたのでは結果は来ない。しかし、努力をすれば必ず結果に恵まれるというのも違う。同じ条件でまいた種でも100%が発芽しないのは、周知の通りである。だから、うまくいったらアッラーに感謝。うまくいかなくても、自分や周りを責めなくてすむ。それでも、決してアッラーはよい努力をしている人を見捨てはしないから。
日本も司法試験の季節だ。僕の研究会の出身者の中にはこの試験に挑戦し続けているSFC卒業生もいる。あらためて健闘を祈りたい。