ワハミーなイード、ハキーキーなイード العيد الوهمي والعيد الحقيقي

January 01, 2006
西暦の2006年がやってきた。年越しの時間、アレッポの夜空には30分以上にわたって、新しい年を祝福する花火の音が鳴り響いた。国営テレビは、年越しの特別編成で、視聴者へのプレゼント当選者発表番組だったり、年越しのディスコ(=古いなぁ。ほかにたとえのことばが見つからないので。。)パーティーの様子を中継していたりしたけれど、なんか、グローバル・スタンダードのありきたりの風景をあえて流しているっていう気がして、虚しさを受け取ってしまった。
イスラーム教徒にとっては、2006年の元旦ということもさることながら、ズゥィ=ル=ヒッジャの最初の10日間の初日としての1月1日である。この10日間、実は、行った善行がアッラーに特に好まれる10日間なのである。ファジュル章では、この10日間に対してアッラーの誓いが立てられている。
ダマスカスのシンポジウムから帰ってきて出かけた、金曜礼拝の説教がこの話だった。西暦の新年を迎えるが、1年間を振り返り、自らの行いを自ら清算するよい機会だという指摘から始まり、しかし、イスラーム教徒の場合は、実は日に5回。信仰の強い人ならば、瞬間瞬間自らの行為を振り返り、悔悟し、改めることをするはずだという話につながる。しかし実際にはなかなかそう完璧には行かない。だから、この10日間のような期間が設けられていると考えることができそうだ。モスクのイマームによれば、サウム、礼拝、施し、アッラーの名を唱えること、人々の対するよい行いなど、俗事も含めて、よい行いに努めてはいかがということだ。アッラーの愛にかなえば、来世での幸せに近づくことができるというものだ。いつになく非常に厳粛な気持ちにさせられた金曜礼拝であった。
そして、アッラーがとりわけよい行いを受け入れてくれるこの10日間の後に待っているのが、大イード(犠牲祭)である。お祭りになるには、それなりの理由が準備されていることがわかる。こういうところがイスラームのすばらしいところだと思う。
日本で大イードに相当するものを強いてあげれば、お正月ということになろう。かつては、少なくとも俗事については清算を済ませなければ迎えることのできないイードではあったけれども、その意味は薄れてしまっているのではなかろうか。十分な清算がないから、暦が改まる程度には、気持ちは改まらない。お正月というのがどこか他人事なのは、そのせいなのかもしれない。
イスラームイードの前に、善行が特に受け入れられやすい期間を置いた。しかも誰のための善行でもない。貧者のためでもなければ、伝統や習慣のためでもない。特定の誰かや特定の目的のためでないが人々に善行を勧めている。この善行には、ラマダーン月中の義務として決められている斎戒とは違って、積極的で前向きな努力が必要だ。大イードとされる理由がこの辺りにもありそうだ。
ムスアブ医師とそんな話をしていたときに、イスラームイードは、ハキーキー(真実的)だが、日本のイードは、ワハミー(人為的に設定されたもの)だねということになった。お正月とともに年を重ねてきた、日本人の僕にとってそれをワハミーという言い切るのは、忍びない。確かに、新年を迎えるにあたって、旧年の行為の清算も、したがって気持ちの刷新もなく、また積極的な善行も師走の忙しさの中にまぎれてしまうようでは、虚しい。しかし、虚しさを乗り越えるのも、積極的で前向きな心積もりがあってからこそだと思う。まずは、自分自身からか。イードまで後10日。まずは、10日後のイードをハキーキーにしなければ。そんなことを考えながら、西暦の新年を迎えた。