無限大のドット نقط لانهائية

June 10, 2006
唐突ではあるけれど、1−∞という計算について、答えを知りたくなった。無限大というのは、この場合人間の霊魂を表わし、「1」は1人の現実の人間を示す。1+∞=∞であることは、「無限ホテルに満員なし」というたとえで頭に入っていた。「1」という現実の人間に無限大を足すと、答えは無限大。つまり掛替えのない存在と解く。
 では、1−∞はどうであろうか。考えた答えは二つ。無限大は、少なくとも1より大きそうなので、「0」になるという答えがひとつ。いまひとつは、1+∞=∞ なのだとして、無限大を移項させあう。すると、1−∞=−∞という数式を得ることになる。「0」になれば、すなわち「1」という存在はなくなる。つまり、「死」。これに対して、「−∞」ということは、永遠のマイナスの生、つまり永久の火獄に落ちるということなのか。しかし、正負というのは、無限大についても成り立つのであろうか。直感的には、無限大と、マイナス無限大は同じもののような気もする。
 ここまで考えて、数学を専門とする同僚の河添先生にメールで質問してみた。すると∞は数学上の重要な概念ではあるものの、数ではないので、「1」などの有限数といっしょには扱われないというのが一応の原則とされた後で、しかし、そこからいろいろな解釈をするのは面白いですねというお答えをいただいた。1−∞に決まった答えはないということのようだ。つまり、正統的な数学では、水と油を無理やり混ぜるようなことはやらないのである。なるほどゲーデルはいまに至っても変わっているのだ。ただ、質問の背景として、ぼくは、「∞−1=∞」が、「無辜の人を1人殺すことは全人類を殺すに等しい」であり、「∞+1=∞」は「一人の命を救うことは全人類を救うに等しい」とイスラーム的には解釈できるという話を書いてみたのだが、こうした解釈の可能性を数学は否定しないという心強い回答もいただいたのでもあった。
 しかし、そのやりとりの過程で、数の連なりは、数直線を使って考えることができるのだが、もしそこへ、無限大という考えをはさむのならば、それは、その数直線の向こうに円をなす不可視の点の集合を考えることですという興味そそられるお話が出てきた。
 なるほど、線分の先に点の集合を考えるか。確かに自分の机の上でノートに書いた線分も、その両端を延ばしていけば、やがて地球を一周して、線分のもう一方の端につながるはず。ずいぶんと大きな円が出来上がったものだ。しかし、円の意味はおそらくそういうことではない。自分の机の上はもちろん部屋の中も家の中も、地球も、宇宙も、ドットに満たされていて、そのドットの連なりのある部分を選び取るのが、線を引く行為なのではないかと思い当たった。
 線が引けるのは、そのドットが用意されているからということにもなる。無限大の可能性の中から線を引いているのだが、しかし、それでもドットがあるからこそ線が引けるのである。これは、アッラーの神慮と天命に従わざるをえないのに、なお人間が自由であるのはなぜかというイスラーム神学の重要命題を考えるヒントにもなる。つまり、人間が引く線は、無限大のドットの集合の中からの選択なので「自由」なのだが、しかし、無限大とはいえ、用意されたドットの集合の中でしか線が引けないのが、「神慮と天命に従っている」ことの意味なのである。このように、無限大のドットとその中から選ばれた線分のアナロジーで考えれば、「人間は、神の意志の支配下にあって一切の自由意志をあたえられない」という決定論にも、また「人間の意志は絶対で、神の意志とは無関係にそれを発揮することができる」という自由意志論のいずれの極端にも陥らずにすむ。
 つまり、無限大のドットに満たされた世界の中から線分を選び取っていく、これは、創造主たるアッラーととアッラーに創造されながらもなお自由を与えられている人間の生き方そのものを示すに足るアナロジーでもあるのだ。
 このドットと線分の関係にも「1−∞」が当てはまるところがある。「1」は、この場合、無限大のドットの中のひとつ。その「1」から無限大を除く。つまり、「1」の周りの無限大のドットをとってしまう。すると、そこに残るのは、線の引きようのない「1」、動くことさえできない「1」である。自由を奪われ、身動きが取れなくなった「1」がそこに残る。「自分教」といわれるむなしい信仰の孤独と危うさでもありそうだ。それを数学的にどう表現したものかはわからないけれど、「1」は「∞」があってこそなのであって、「無限大のドット」に満たされた世界が用意されていること、さらに言い換えれば、「無限大のドット」を用意した存在があればこそ、「1」足りうるということを忘れないようにしたいものだ。
 さて、人間から霊魂を引くとどうなるかという定式が「1−∞」と冒頭に書き出したが、人間を「1」とだけ表わしたのでは、不十分であることが、上の無限大のドットと線分の関係からもわかる。それは、「1+∞」でなければならない。したがって、人間から霊魂を引くとという定式は、「(1+∞)−∞」となる。つまり、「∞−∞」。それは、「∞」。掛替えのない存在という答えが残ったように思うが、それは人間の目から見た場合の答えに過ぎない。
 アッラーの存在は、無限大に優る。無限大を創ったのも彼だからだ。無限大とはいえ際限のあるものから、際限のあるものを引く。答えは「0」。人間から霊魂が失われるということは、究極の「0」つまり最後の日の到来なのかもしれない。最後の日の審判は、人間のすべての行いに対する審判。これ以降は、行いに対する見返り(よいことに対してはよく、悪いことに対しては悪く)が永遠に続く。つまり、ここを基点として現世と来世のバランスが取られるのだ。秤の中心。究極の数直線の「0」である。イスラームでは、最後の日が近づく兆候というのをあげて、人びとが霊魂とは無関係な野放図な生き方(つまり、無限のドットもまた与えられたものであることを忘れた生き方)をすることに警告を発している。その警告のいくつかが、間違いなくこの時代に当てはまっている。アッラーはすべてを御存知。