アッラーは被造物と相容れない〜中沢新一著『三位一体モデル』の印象〜

December 02, 2006
「『三位一体モデル』という本が売れているらしいですよ」と、大学院生のスライヤーさんが教えてくれた。著者の中沢新一氏は、関心領域に重なるところがあるし、彼の著作は授業などでも紹介したこともある。アマゾンの即配サービスで今届けられ、チラッとあけてみてびっくり。
 何と、開けたページに、「アッラーとは「存在」という言葉と同義です。すべての存在世界は、唯一つの神であるアッラーからできている、と考えられている」とあるではないか。。。これはおかしい。「存在」はアッラーの属性の1番目ではあるが、そのものではない。イスラーム神学の基礎の基礎である。しかも「すべての存在はアッラーからできている」なんてありえない。アッラーが創ったであればよいけれど、「アッラーからできている」とはいったいなんであろうか。
 さらに、「イスラームからしてみると、私たちはすべてアッラーです」とやってくれている。「私たちがすべてアッラーです」と???。これは、イスラーム的には絶対的な不可能に属します。ありえません。
これにはさらに「アッラーは目に見えません。目に見えないものが、現実世界にあらわれてくると、ひとつひとつの存在者がかたちづくられるようになります。植物もアッラー。風のそよぎも、クーラーも、めがねも・・・・ぜんぶアッラーです」と丁寧な説明までつけてくれている。
 ひどすぎる。「アッラーは目に見えません」。これは正しい。しかし、「現実世界に現われてくる」という現われ方はしません。アッラーはあくまでも創造者です。創造者が自分の創造した物と同じなどということは、論理的にも起きないのではないでしょうか。イスラームの教えでは、植物や風やクーラーにアッラーの印は見出しますが、それら自体がアッラーになることなど、決してありません。
 アッラーが40の属性によって整理されていることを知っているのでしょうか。中沢先生は。。。しかも、一神教の唯一性を「アッラー=存在」の等式からしか説明できなかったのでしょうか。そもそもクルアーンのいちばん最初の章に「万有の主」とアッラーのことが言い換えられているけれど、それもご存じないのでしょうか。アッラーは「万有の主」であって、「万有」ではないのです。
 ぱっと開けた15頁から16頁がこの調子のこの本、おそらく日本人の宗教に対する理解の低さを露呈した一冊になってしまっているのであろう。そうなると三位一体についての理解も疑義をさしはさみたくなる。またまた、日本人を本当の宗教から遠ざける1冊の登場ということだろうか。
 ところでつい先日も同僚の徳田先生が、IT技術の進化を一神教から多神教、そして汎神教への移行として捉えた「神様はどこにいるの?」という文章を書かれていて(『創発する社会』(国領二郎編著、日経BP出版センター))、彼の言っている神様はとても「アッラー」とはいえないなと思ったばかりであるが、中沢氏のイスラーム理解を重ねると、徳田先生のユビキタスコンピューティングは、イスラームそのものというご本人がまったく意図していない結論にもなりかねない。ほんとうに『イスラーム神学50の教理』の改訂あるいはそれに代わるものの作成を急がなければならない。
 「おもしろかったわ! この薄さが、ありがたいね。(後略)」とは帯についているタモリ氏のコメント。読者諸氏の見識に頼るほかはなさそうである。