なくなった靴 حذائي مفقود 

December 05, 2005
アレッポに住むようになって、そろそろ2ヶ月を迎えようとしている。金曜の、そして普段の礼拝でいちばんよく利用しているのが、ホテルからいちばん近いところにあるアッバーラのモスクだ。日本でいえば、一昔前の秋葉原のような電気製品店街の中心に位置する。モスクの入り口のカウンターで貴重品を預かってくれる係りのおじさんは、顔のきらきらするまっすぐな感じの人。いつもモスクを訪れるたびに、胸に手を当てて、丁寧に挨拶してくださる。いつだったかラマダーン中にたまたま隣同士で祈ったときは、お互い旧知の仲といった感じで、礼拝後に挨拶を交わしたものだ。
今日は、週に1度のアフマド先生とのジュルース。テーマは、来世。現世の生がいかに取るに足りないものかを教わった。もちろん、小さいからといって捨ててはいけない。現世で以下に生きたかが来世の行き場を決めるからだ。家族も財産も道連れにはできない。来世までついてくるのは自分の行いだけなのだ。
帰り際にマルカズによるが、借家関係の約束が明日になったことを知らされ、そのまま、アッバーラのモスクへ、アスルの礼拝によった。イカーマを呼びかける人が運良くいてくれて、居合わせた人々とともに祈った。妙に充実した祈りだったように思えた。
さて、帰ろうといつもの下駄箱へ行くと、靴がない。モスクの中の下駄箱であるにもかかわらず、いつもの6番に私の靴がない。あっ、やられた。慌てて、モスクの入り口へ出てみるが、それらしき靴も人も見当たらない。うぅぅ。
ここで考え直す。間違えられた可能性もある。まずは、連絡があったら教えてもらえるよう、靴がなくなったことだけ言い残しておこう。つまり、おじさんはもちろん、カウンターに人のいない時間だった。おそらく彼がやってくるのは、マグリブの前。もう1時間あまり。とりあえず、待つことにした。
すると、声をかけてくる人がいる。「どうしたのか」と。事情を説明すると、「私に靴を買わせてくれ」という。「お金の問題ではない、このことをモスクの人に知らせておきたいのだ」というと、別のカウンター係の人を連れてきてくれた。大切なお客に申し訳ないことになったと靴代を払わせてくれと言った彼が謝っている。ホテルまでのタクシー代を払わせてくれという。これも丁重に断らせてもらった。「モスクの人を呼んできていただいただけでほんとうに十分です。ありがとうございます」。彼はすまなそうに去っていった。
やがて、別のモスクの人がやってきて、いつものおじさんのことを聞くと、今日は非番とのこと。靴はよく盗まれるんだよとほとんど屈託がない。政府のことをハラーミーだって人々はいつも言うけれど、人々もハラーミーなものだとぶつぶつ。ホテルの雑用係のファウジに部屋からスニーカーを届けてもらう。気に入っていた靴だし、シリアの靴で昔すっかり足が痛くなったことがあるので、諦めきれないが、ここは諦めなければならないようだ。
ホテルに戻ると、フロントのアブー・ローディーが笑いながら、「災難だったね。まぁそれがあの靴の運命(サビールフ)だ」と慰められた。聞けば、こともあろうにもすくではかなり頻繁に盗難が起こるらしい。「運命だ」と諦めるしかないようなのだ。それでも「盗難は盗難」。イスラーム法では、窃盗には厳しい刑罰が用意されている。もし、「ファーティマが盗みをしたならば彼女の手を断つだろう」という形で聖預言者の言葉にも出てくる「窃盗」なのにまったく残念だ。
ただ、気をつけなければいけないことは、盗みと決まったわけではない。こんな決め付けはよくない。所詮、現世は小さいのだ。
悪いものでも食べたのか、しくしくと痛む腹を抱えながら、シリアの靴を見直すチャンスが与えられているのか、それともまた新しい物語が始まるのかなと思おうとしている。