飛び続ける鳥はいない

December 17, 2006
人間が自由を語るとき、鳥は欠かすことのできないメタファーである。♪この大空に翼を広げ飛んで生きたいよ〜を引き合いに出すまでもない。2次元の世界を例外的にしか離れることのできない人間にとって、3次元の世界を飛び回る鳥たちは、たしかに自由の象徴足りうるのである。海、山、川などの自然的な境界から、城壁や家の塀、さらには国境、あるいは男女、家族、民族などの境まで、人間はさまざまな境に囲まれて生きているが、鳥になれば、たしかにそれらの境界を簡単に越えることができる。
 自由とはしたがって一次元を足してあげることということができそうだ。先週の研究会で取り上げられたメルニーシーの『ハーレムの少女、ファーティマ』では、しかしながら、ハーレムという境界によって外部から仕切られた空間の中で、そこにとどまりつつも幸せにはなれると説く老祖母の言葉と、そこを出なければ幸せにはなれないと娘に聞かせる母親の言葉の間で戸惑うファーティマの心を垣間見ることができた。
 自由は人間の幸せを意味しない。女性がそして子供が外部から完全に遮断され守れられる空間としてのハーレムの外に幸せがあると思えるのは、外を知らないからだけなのかもしれない。クルアーンはルクマーン章の中で、男は自分の家族を地獄の業火から守らなければならないとその責任を説く。それは、家族をハーレムの中に囲い込むことではなかったはずだが、結局、いちばんの安全策が取られた格好である。しかし、こうした慎重すぎる選択は、それが昂じると当の人間たちを堕落させ、苦しめる。
 かごの中で飼いならされた鳥が、決して野生に戻れないのと同様に、ハーレムの中に囲い込まれた人間は、野生など比べ物にならない「無限大のドット」が織り成すような自由を生きる術を忘れてしまうのかもしれない。そうであるとすると、ハーレムは、もともと家族を守るというイスラームの教えに即したものであったとしても、そこに暮らす人々は、決してイスラーム的ではないということにもつながりかねない。
 研究会で発表を行なった学生は、ハーレムから出るというフェミニズム的な自由論よりも、むしろ、ハーレムが守っている男女の間の境界が、日本の社会では溶けてなくなってしまっていることに着目し、倫理の必要性を説いた。越えたからこそつかめる幸せがあることは事実だが、越えてはいけない境界があることも人間の知恵は教える。鳥も飛び続けているわけではない。翼を休める場所は持っているのだ。
 そう考えてみると、自由は安らぎのなかからはぐくまれ、安らぎは自由があるからこそ安らぎ足りうることがわかる。幸せとは、にもかかわらず、守られていること。ハーレムの外側にあってもなお、いやあってこそ、人間を導き、お守りくださるのがアッラーなのである。

*鳥と自由:「かもめはかもめ」では、「クジャクやハトやましては女にはなれない」といって相手からの別れを歌うときに使われていたのに対して、「あなたの空を飛びたい」では、逆説的に、特定の相手への愛を捧げるために用いられていた。