携帯電話 الهاتف المحمول

December 03, 2005
ここ数年、シリアへくると携帯電話を持つ。研修でくるときには、センターとの連絡用に持たされるといったニュアンスが強いが、今回の滞在では、より積極的に持っている。かつて、電話線を引いてある借家を探そうとすると本当に難しかった。もう10数年前にシリアで最初に住んだ家も大家さんとの親子電話だった。そのころは、電話線も配給待ちのような状態で、「もう何年も前に申し込んでいるのだが」という返事を家探しのたびに聞いたものだ。
それが、今は携帯電話がほんとうに簡単に手に入る。カメラ付き、ゲーム付き、キーボード付きと機種も豊富で、たいていの人は持っているといってもよいほどだ。今回入手した機械は、カメラなしの最もシンプルなものだが、それでもノキア製ということもあり7000シリアポンド(1万3千円程度)だった。決して安い買い物ではない。中古品市場でも高値で取引されることもあろう。こうしておそらく目を見張る速さで普及している。
シリアで携帯電話が出始めたころ思ったのは、もともとが話し好き、長電話の人たち、これで携帯など持ったときにはどうなるのかという素朴な疑問。回線がパンクするに違いないなんて考えたが、それをすべて解決しているのが、通話料金の高さ。誰かが儲けているななどということはとりあえず考えず、ほんとうに短い通話、いわゆるワン切り、そんなあの手この手で普通の電話(通称、家電、アラビヤ語では地上回線の地上だけとってアルディー)に切り替えてしゃべっている。
ホテル住まいの私に家電はなく、当然、携帯への依存度が高い。ホテルの交換を通じて地上回線が使えるので、正確には家電がないわけではないのだが、携帯の便利さが日本ですっかり身に染み付いている私はほとんど携帯で済ませている。友人への連絡、アポイントメントの変更はもとより、日本への連絡やSFCとの遠隔授業の音声もすべてこの携帯によるものである。
この携帯を1週間のうちに2度落とすという失態を演じてしまったのが先週であった。1度目、落とした場所、大学から、カラムダアダアへの移動に使ったタクシーの中。気づいたのは、落としてから4時間後。クルアーンのレッスンを終え、ホテルに戻る途中。一縷の望みをかけて、ホテルの部屋から自分の携帯に電話。運転手さんが拾っていてくれた。乗車中にムスリム同士意気投合して話が弾んだのも功を奏した模様。出かける予定をキャンセルして届けてくれたのだ。いい運転手さんに拾ってもらってよかった。アル=ハムドゥリッラー。
それから4日後に2度目がやってきた。落としたのは、カラムダアダアからバロンへ戻るときに乗ったタクシー。気が付いたのは、携帯で連絡が付きませんという地上回線からの電話。その電話をもらってもなお、スイッチを切っていたかなと思っているのんきな私。うぅぅ。また紛失だ。
もう観念した。運ちゃんとは一言も交わさなかったし、この手のこと2度めはない。冬用コートの横ポケットに入れまいとあれほど決意したのに、、、自分が悪い。次に与えられるのは、試練と覚悟して、自分の携帯に電話をしてみる。「電源が切られているか、電波の届かないところにあります」という女性のアラビヤ語案内だ。あぁ、売り飛ばされたか、私の携帯。。。やはり、試練が与えられたと観念。一度は戻ってきた大切なものをいとも簡単に紛失する自分のふがいなさに、自分の生き方まで見せ付けられたような気がして落胆。
これでは、信仰を持たない人間は、困難に出会うとすぐに落胆するという教えそのままだと思いながらも、どうにもやり場がない。ここが試されているのだよと言う声も途切れがち。
その日は、日本から岩井君と三浦君がアラビヤ語形態素解析のプログラムの実験のためにアレッポに到着する日。ダマスから携帯に連絡をしたが、連絡が付かないという連絡が入りましたという院生の植村さんからの地上電話の連絡で、携帯をなくしてことに気づいているのだから、つける薬はない。
もうあきらめたと言い聞かせて、彼らを出迎えようとやってきたバナナさんに会う。バナナさんは、明日シリアテルに行って番号をとめてもらう手続きをしよう「機械をもう一台買うことになるのは仕方ないな。ワハハ」といつもの調子で励ましてくれた。横で、妙にうれしそうなのが息子のムハンマドだ。うぅ。「頼むから、静かにしておいてくれよ」。
聞けばムハンマド、紛失経験者。しかも2度。その彼は一生懸命電話をかけ続けてくれている。すると、なんと応答があったではないか。しかも、今すぐ届けてくれるといってくれているという。ただし、返すときに顔が見たいといっているらしい。かくして、2度目も電話は返ってきた。運ちゃんいわく、「いろいろなところから、わけのわからない電話ばかりがかかってくるんで切っておいたんだ」。岩井君に、植村さん、そして、その日マグリブにモスクのクルアーン公開レッスンに連れて行ってくれることになっていた、今度大家さんになるアブー・アドナーンさん。それは、電話を切ってしまいたいのも、本人に直接会って渡したいという気持ちもわからないではない。
二人の運転手さん共にお礼はお渡ししたが、それにしても、シリアの運ちゃんのモラルは高い!ここのところシリアのムスリム社会に懐疑的になっていた僕には、気持ちの明るくなる出来事でもあった。こころからシュクラン。
それにしてもムハンマドには脱帽だ。どんな局面に置かれてもなお、決して諦めない。バナナさんの血を確かに受け継いでいる。いやいや、血の問題ではなくて、それが、信仰深いということの意味なのかもしれない。自分が諦めても、神が守ってくれることがあることの証明。多くを学ばせていただいた。