イスラームにおける人権 حقوق الإنسان في الإسلام

November 14, 2005
アルジャジーラの人気番組の一つに、「シャリーアと生活」がある。カラダーウィー氏が登場して、毎回異なるテーマでの講義と視聴者からの質問に答えるという1時間弱の番組である。昨日のテーマが「フクーク=ル=インサーン(人権)」であった。番組は、先日のヨルダンの爆破事件で亡くなったイスラーム世界の誇る映画監督、ムスタファー・アッカード氏への追悼ではじまった。彼の代表作は「リサーラ」。UCLAで映画を学び、以後第一線で活躍されてきた巨匠である(詳しくは、奥田研出身でアラブ映画研究の草分け的存在の佐野光子さん(現在モロッコに取材旅行中)に譲りたい)。このような人物をはじめ、無辜の市民を巻き込んだ今回の事件に対する非難から、講義は始まった。つまり、イスラームの予定する人権とも相容れない今回の爆破事件なのである。
今回の放送の聞きどころは、「人権」について何か新しい観点が追加されているか否かであった。カラダーウィー師らの見解にも依拠しながらイスラームの人権についての拙著(『イスラームの人権』慶應義塾大学出版会)がようやく書店に並んだのが今月の初めだった。少し気が早いけれど増補版のためにも新しい情報(あるいは書き漏らした情報)があればと考えていた。結論からいえば、新しい見解は特に示されていなかった。むしろ、西欧の人権概念にイスラームの人権概念をあえて当てはめようとして、かえって、議論が矮小化されてしまっていたところが気になった。
権利や自由が十分に認められていないのではないかといった問いかけに、西欧の土俵に降りていくと必ず失敗するのである。イスラームでは、権利より義務、自由より平等や正義が重視されるからである。しかし、イスラームのいう権利と義務、あるいは自由と正義がよって立っている地平は、西欧の法制史でいう、権利や自由がよって立っている地平とは次元が違うのである。イスラームのほうは、たとえ社会の事柄であっても、あくまでも宇宙の摂理イスラーム的には神の摂理ということになるけれど)が念頭に置かれているけれど、西欧のほうは、彼らの歴史が念頭に置かれているに過ぎないからである。
ちょっと乱暴だけれど、そのくらいの違いがあるので、権利や自由が制約される瞬間が体系のなかに予定されているのは、当たり前のことなのである。象徴的には、「死」である。権利や自由をいくら主張したいからといってもいつかは人間死ぬという意味での「死」から人間は逃げることができない。西側では、「死」も権利をして認めよといっているけれど、これは明らかに「生」に対する、あるいは、宇宙に生きていることに対する冒瀆といえる。
したがって、人権が論じられる土俵を混同すると足を救われてしまうのである。社会が方を作り、習慣が法を育てる、西側の法制度とは、基本が違うのである。ようやく、国家の枠を超えた人権を論じるところまで、西側の法の認識が到達したということに過ぎないのである。したがって、イスラーム法の役割は、そのようやく芽生えてきた西側の意識を正しく育てることへの寄与以外にない。決して、歴史的現実に埋没する形での議論に終始してはいけないのである。そのとき、西側が人権の議論からさらに進めて、グローバル・ガバナンスや人間の安全保障というところまできていることを考えると、それをリードできるのもイスラームの教えをおいてないのであって、人権の議論に終始していてもいけないのである。
昨日の番組は最後の最後になって、西側の法が予定している人間は、欲望の担い手としての人間であり、イスラームの予定している人間が、抑制の効いた人間であるという対照にたどり着いた(番組では動物としての人間と人間としての人間とされていた)。人権というときの「人」の指すものが違うのである。少しだけほっとしたけれど、確かに、イスラーム世界の現実は、イスラーム法が教えとして予定している懐に深さや広さを見失わせるほど、厳しくかつさびしいものだ。アンマーンの爆破事件で亡くなった人々に哀悼を捧げるとともに、世界のメディアに決して伝えられることにない理不尽な死を強いられている人々に思いをはせた。
冒頭に触れたアッカード監督はアレッポ出身。本日、アレッポに棺が到着。多くの市民が悲しみにくれたものと思われる。