自殺のない社会 المجتمع الخلي من الانتحار

December 03, 2005
希望を失わないとはなんとすばらしいことだろうか。2度にわたる携帯電話紛失事件から、そのことを教えてもらったような気がする。自分で勝手に決め付けて、諦めてしまうこと、きっとこれも一種の傲慢だ。そんな傲慢さに対する教訓が2度にわたる紛失を通じて与えられるとは。ほんとうにアッラーは偉大だ。
さて、希望を失わないのが、バナナ家に特有な楽天的な血のせいではないことは、もう一度強調しておいてよいように思われる。それを裏付けるのが、自殺者の少なさの話だ。奥田研で「自殺問題」といえば、小牧奈津子さんが修士研究で取り組んでいく予定のテーマでもあり、そんな関心もあって、先日は、精神科医も務める私の畏友、ムサアブ博士とそんな話をした。
ムサアブさんによれば、彼がアレッポの39年間の人生で聞いた自殺といえば、「2件」だという。そこで「それ知っている」と私。「一人が、前首相で、もう一人が今回の内務大臣でしょ」というと「サッハ」とムサアブさん。もちろん、シリア一流のブラックジョーク。あの二人が自殺でないのは、国民は皆知っている。
それはさておき、正直なところ、2・3件だという。しかも、どこの誰で、どんな事情で亡くなったということまで知っている。つまり、人々の記憶にしっかりととどめられるくらい、稀有な印象的な出来事なのだ。40年間で2・3度しか起きない事柄といえば、なんだろう。不謹慎ではあるが、親の死ぐらいかもしれない。年間に3万人。しかも働き盛りの自殺が多いという日本の事情を説明すると、ムサアブさんが絶句していた。
自殺者が少ない理由の説明も明快であった。一つは、信仰。もう一つは、家族を中心とした社会の絆。信仰があれば、悩みがあっても人は、自分自身ではなく、神と向き合うことが可能になる。社会の絆があれば、悩んでいる人を放っておくことをしない。だから、悩みがあっても、信仰心を上手に取り戻してあげることによって、自らを殺す事態は回避できるし、周りが悩みを聞いてあげることによって自分を取り戻すこともできるだろう。もちろんイスラーム社会にも精神を病む人はいるという話で、彼も実際に数名の患者を抱えており、治療に成功しているとも言う。確かに、神に守られているんだよ事実を本人に気づかせることに成功すれば、心は安定を取り戻すかもしれないと素人目にも考えられる。しかもそこには、かなり確かな治療法が存在しているということも注目に値する。
その日は、自殺してはいけない理由の話でちょうど時間となったが、それは、次のような説明だった。「殺人と自殺とどちらが悪いと思うか」という質問に対して、答えは「自殺」。なぜか?「殺人者は、生きている限り自分の行為について悔悟できるが、自殺してしまうとそれができないから」とはムハンマドの言葉だという。「悔いては改める」。そういう余裕を本人も社会も持つこと。それが、自殺者を激減に結びつける鍵のように思える。失敗を責め続けるだけでは、つらすぎる。破滅が待ち受けるのもわかる。悔いること、そして改めること。いちばんお赦しくださるのが、アッラーでもある。