種をまく努力

May 27, 2006
この時季、シリアでは学年末にあたる。2学期制で、学期末はもちろん中間試験も行わないこの国では、学年末の全国統一試験が、進級やら卒業やらのすべてを決める。直前の追い込みで、バナナさんのところのムハンマドも、マンスール先生のところのアーシム(二人はともに大学への進学がかかったバカロレアを呼ばれる高校最後の試験である)も、ムサアブ医師のところで雑用係を務めるアフマドもそうだ。
ところで昨日のサビールのモスク(家にいちばん近いモスク)の説教もこの話題だった。試験の季節が始まりますねと。単に応援してあげましょうというのではない。これを機会に「もうひとつの試験」を思い出しましょうという趣旨だ。もうひとつの試験とは、すなわち、最後の審判での裁きのこと。二つは同じ試験でもいくつかの点で異なる。
ひとつは、日が決まっているかいないか。そう、学校の試験に限らず、現世での試験は、日が決まっている。だから、準備もするし、準備もしやすい。これに対して、最後の日の試験はいつやってくるのかわからない。準備は怠りがちだ。だから、こういう機会に思い出そうということになる。
次に、問題が分かっているかいないか。俗世の試験は、問題が分からない。さて、何が出るのか、ここに勉強の余地がある。これに対して、最後の審判の問題は、一人一人が皆知っている。現世において自分の意志でやったことのすべてが裁かれるにすぎないからだ。他人の罪を負わされることはないが、一切ごまかしはきかない。「試験に出なかったので助かった」なんてことが俗世の試験ではよくあるけれど、あちらの試験はそういうわけには行かない。
さらに、俗世の試験は、その気になれば金で買うことができてしまう。学校の試験だけではない。学位なんていうのも金で買える。イマームのこの説明には目を見張った。この金で買える学位に、この国では宗教界までもが巻き込まれている見方もあるからだ。最後の審判は、お金ではどうにもならない。
最後に、俗世の試験の効用は、短い。試験に受かって何かの資格を取ったとしても、所詮は、生きている間のこと。たとえうまくいかなかったとしても多くの試験の場合には、次のチャンスがある。これに対して最後の審判のほうは、それが最後だ。その結果で永遠の生のありかが決まるし、もちろんやり直しもきかない。
ここのところ、パレスチナへ皆さんからの支援をというないような説教が数週間続いていた。これも、宗教が政治に買われている状況と見ない人がいないわけではなく、身の回りの問題をさておいて、パレスチナパレスチナと連呼するのもいかがかと考えていたので、身近な話題の説教に、昨日は少しほっとした。
アラビヤ語で農業に当たる言葉(ズゥラーア)の動詞形は、「種をまくこと」である。耕すことではない。クルアーンの中に、種をまくのは人間たちで、芽を出させるのはアッラーであるという趣旨の聖句がある。努力は人間がしなければならないのである。座っていたのでは結果は来ない。しかし、努力をすれば必ず結果に恵まれるというのも違う。同じ条件でまいた種でも100%が発芽しないのは、周知の通りである。だから、うまくいったらアッラーに感謝。うまくいかなくても、自分や周りを責めなくてすむ。それでも、決してアッラーはよい努力をしている人を見捨てはしないから。
日本も司法試験の季節だ。僕の研究会の出身者の中にはこの試験に挑戦し続けているSFC卒業生もいる。あらためて健闘を祈りたい。