エゴイズムな自動車 سيارات أنانية

November 05, 2005
今年のアレッポラマダーンでおそらくはじめて経験したのが、自家用車による帰宅渋滞だ。僕がシリアにいたころには、まだ自家用車の数がそれほどでもなかったので、お目にかかったことはなかったのだ。一つの交差点の渋滞で、15分や20分ぴたりと止まってまったく動きがないなってことも1度ならずであった。日本ならば、これは事故があったなと思わざるを得ないような止まり方なのである。
一度はあまりにも動かないので、確かめに車外に出たことがあった。数百メートルを歩いた末に目にしたものは、絡まってほぐすことができなくなってしまった毛糸のような交差点のさまであった。われ先にとはやる気持ちが、停止線無視、前の車の流れ無視で交差点へ突っ込ませる。赤信号になっても交差点内には多くの車が残る。当然青信号の側からは車は入れなくなるが、事態をひどくしているのが、にもかかわらず青信号の側が、車を突っ込んでいく。こうなるといけない。まったく動きが取れなくなって、残るのは、怒号とクラクションの嵐。
自家用車という乗り物は、そもそもがエゴイスティックだから、日没直前の帰宅ラッシュで、その運転手のエゴがむき出しになる格好だ。よく、宗教と科学技術のたとえ話で、宗教を欠いた科学技術は、暴走する車のようだいわれるけれど、そんなことさえ思い出させる。もはやそこには、ラマダーン月に持つべきはずの譲り合いの気持ちとか、我慢の気持ちなど少しも感じられない。そこが試されているというのにほんとうに残念に思えてしまう。まだ、自家用車がほとんどなかった10年以上前のラマダーン帰宅ラッシュで、定員オーバーの乗り合いバスにシリア人たちが一人でも多くを乗せようと身体を小さくしていたあのころが懐かしく思い出される。
そういえば、ライラトゥルカドルの夜の礼拝では、これほどぎゅうぎゅう詰めで祈ったことはないと思えるほど両隣と密着した礼拝を経験した。同時に平服礼に入るのが厳しいくらい窮屈なのに、それでも信徒たちは、決して横の列を崩すことはない。それがイスラームの連帯と秩序の象徴的な姿なのだ。ライラトゥルカドルの礼拝ならそれができるのに、あるいはモスクであればそれができるのに、帰宅ラッシュでそれができない。モスクから離れてしまうとそれができない。だから、ラマダーンだからといって人々が急にモスクに通いだすさまを見せられるとなんだか複雑な思いがどうしてもしてしまう。