貧困と貪欲 الفقر والبخل

October 29, 2005
今日は、急遽、カラム・ダアダアの奥に控える貧困地区カラム・アファンディーに出かけることになった。ムサアブ医師の車にオリーブオイルとお茶を積んで出発。今までと違うのは、今日は出かける前から、医院に見るからに貧しい人々が訪れ、ザカーの品はどこでもらえるのかを盛んに聞きにくる。カラム・アファンディーの学校とモスクの間に行きますよとムサアブ医師が伝えると、人々もそちらへ向かう。医院から、そこまでは歩いて5分程度であろうか。われわれもゆっくりと車で出かけていった。
待ち受けていたのは、先ほど医院に尋ねてきた家族4名と思っていたら、5分もしないうちに人だかりになってきた。医院の受付係のアフマド少年がここでもノートを手に、受け取ってもらう人々の名前を控える係りだ。しかし、そんな平和な風景も一瞬で崩れてしまった。名前を書いてからといっているのに押し寄せる人また人だ。口々に自らの貧窮を訴えては、ホロつきの車の荷台に積んである、油とお茶の権利を主張する。ノートはいつしか荷台のすぐ前に控えるムサアブ医師の手に。剣幕にも似た女性たちの主張にアフマド君は、車の助手席に逃げ込んでしまった。
見ると中に男性がいる。病気にも見えない屈強な体格の男性数名だ。そんな彼らが油の缶をいち早く担いで持って帰る。自分の隣人のためだとムサアブ医師の前ではいっていたというが、職を失って収入がない男だとのこと。18リットル入りのオリーブオイルは、市中の価格で、700から800シリアポンド(2000円弱ぐらい)だという。この地区の人々にとっては、簡単に払える額ではない。
車の周りの騒ぎは大きくなって、とうとう、紅茶が散乱した。地面に惨めにもまかれてしまった数キロの紅茶。それをすくい取ろうと群がる子供たち。貧しすぎる光景だ。そうすべてが貧しいのだ。ものだけではない。知力もそして心も。砂漠にまいた水にも似た道路にばら撒かれた紅茶ではあったけれど、それが現実なのだ。いやになったり、目をそむけたりしてはいけないのだ。
車の油や紅茶に群がって必死に手を伸ばす人々を見ていて、ぼくは、バーゲンや安売りに群がる日本の人びとのことを思い出した。こちらは、貧困ではなく貪欲がなせること。ものにあふれていても同じことが起こる。どちらも知力や心の貧しさがなせることなのかもしれない。
僕自身のザカーは、残りもこの地区にと決めた。現金で渡すことも当初は考えたが、食料のほうがよい。5キロずつのお米と砂糖が18袋ずつ出来上がった。道に撒き散らされる同じ轍を踏まぬよう、医院の下の不動産屋さんに仲介を依頼し、取りにきてもらう方式にした。一人でも多くの然るべき人が空腹を紛らわすことができればと祈るだけである。
今夜は、ライラトゥル=カドゥルである。ムサアブ医師とともに久しぶりにアーディリーエモスクを訪ねて、アレッポラマダーンのもう一方の「霊的」側面に触れてこようと思う。